福島県にある勿来の関を見て来た。
「勿来」は「なこそ」と読む。
少し特殊で読みにくい。
私も最初は読めなかった。
漢字を見れば「来る勿(なか)れ」と漢文調に解釈はできるが。
写真の立派な武士は、源義家(陸奥守兼鎮守府将軍を務めた。鎌倉幕府を開いた源頼朝は源義家の玄孫(やしゃご、孫の孫)にあたる。)で
吹風を なこその関と
おもへども
道もせにちる 山桜かな
と詠んだと伝えられ、この歌は、勅撰の千載和歌集に載っている。
これが「なこその関」を世に広め、多くの歌人などが「なこそ」という言葉を使い、歌を詠んだとされる。
ここは、福島県内では相当に名の知れた所ではあるが、山の中ということもあり、現在、残念ながら訪れる人は少ない。
しかしながら、石碑などは、ここに数多く残されており、小野小町や和泉式部、斎藤茂吉など、一風変わった所では、永野修身(元日本海軍の大将で、太平洋戦争開戦時の軍令部総長)の句碑も残されている。こちらから依頼すれば、拓本も取らせてもらえるようだ。
ここの地元では、かつて有名だった勿来の関を、より多くの人々に知ってもらうべく、勿来関文学歴史館や吹風(すいふう)殿を建設した。吹風殿の名前は、源義家の歌の冒頭「吹風を・・・」を引用したそうで、歌が詠まれた平安時代の邸宅を模して建てられた。平安貴族が暮らした「寝殿造」の建物である。
普段は、体験学習施設として、一般に開放されている。
中はこんな感じ↓
今回思ったのは、
どうしてこんな山の中に関所があったのか?
ということである。
現在のJR常磐線の勿来駅から2キロ以上も離れており、人が通る所ではない。今は海岸線に沿って、JR常磐線と国道6号が走っているが、そこからはかけ離れた場所である。
もちろん鉄道や道路は、トンネルを掘り、コンクリートで固めて、アスファルトで舗装する、といった一連の建設作業が必要だが、それは日本が近代に入って以降、可能になった話である。しかし、平安時代にも、海岸線を通れる道はあったと思うのだが。。。
本当にこんな山奥の、しかもかなり高度もある所を人が通過していたのか、非常に疑問に思った。それについては、時間を見つけて、文献などに当たりたいと考えている。