(またこんな時間に書いてます。でも随分眠れるようになって、ちゃんと睡眠も食事も摂っています。
ご心配おかけしますねあせるごめんなさい。)
 
早いもので、もう1週間。
法要は葬儀の日に一緒に行いましたが、7日ということで母のアパートに泊りに行きました。
本当は私だけで行こうと思ったのですが、先日のバトル(笑)のこともあり、
夫が子供達と一緒に来てくれました。
 
天気予報では、
土曜日はくもり
日曜日は・・・・なんと台風霧霧霧雷
 
まさかねぇ・・・もう揉めることはないでしょ。
母と一緒に食事をとって、偲んで・・・それで終わり・・・
と思っていたら・・・
 
甘かった!!!!
やっぱり(?)また揉めました
これ以上揉めるのが嫌だから、今後の事はすべて譲ったのに・・・
 
仕舞いには、「そんなに気に入らないなら位牌も骨も持ってけ!!!!!」と怒鳴られました。
あ~~~~~~~~
お母さんの前でまた・・・
 
とにかく、同居人は酔っ払いながら出てってしまったので、
主人と一緒にひとまず母の遺品(もともと母のものだった物や、私があげたもの)をまとめました。
 
今後どうしたらいいんだろう・・・
ずっとずっとこうして揉めていくのかな・・・・
と思いながらも、ウトウト寝ました。
 
朝、ふと目に付いた引出しがありました。
薬やら文房具屋らが入っていた引出し。
入っているものはだいたい知っていたので、それまで開けませんでしたが
何気なく見てみると・・・
 
母の日記が現れました
隠すかのように、破った8月のカレンダーの下に。
最後の1年のもの。
そして、病院の領収書や病院の資料等が並んでいる棚から、それ以前の日記がもう1冊。
 
母に、「ごめんね、見せてね」と断りを入れて、中を見ました。
そこには、私や弟、私の夫、親しい友人への感謝の思いと謝罪。
私の子供たちの事を想う気持ち。
会ったこともないのに親身になって力になってくださったブロ友さん、
情報をくださったり、明るく励ましてくださったブロ友の皆様への感謝の思いもありました。
「力をもらえる」と。
 
そして・・・同居人とのつらい毎日。同居人の家族に対する思い。誰にも言うことが出来なかった愚痴・・・
たくさんたくさん書いてありました。
 
母を嫁の様に思ってくれていた、同居人の家族に、金銭的な部分への感謝の思いはありました。
でも、母の体の痛み・心の痛みに最期まで全く気付いてくれなかったその人たちに、
母は「いじめられるために出会ったのだろうか・・・・」と記していました。
 
最期のページには、
 
「8月18日(月)
早く死にたいと思った。(同居人から)毎日こんな辛い思いをさせられるくらいなら
自由にさせてあげるために死にたくなる。
自由になったあなたは、悲しみにおちて、のんだくれて、逃げることでしょう。」と書かれていました。
 
 
私は、生前、何度も何度も別れるように言いました。
一緒に住もうと誘いました。
でも、「子供に迷惑はかけたくない。病院の為、薬の為と割り切って一緒にいるから大丈夫」と言い、
私の誘いを断り続けました。
 
母の死後、同居人やその家族が、今度は私を母の代わりにしたい・・・というのは解っていました。
「tomoさんの代わりに、(同居人の事)頼むね。実家にも遊びに来てね。これっきりなんて言わないでね。
tomoさんの代わりに・・・tomoさんの代わりに・・・」
何度言われたか解りません。
 
 
母が最期に助けてくれました。
私をあの家族から守ってくれました。
 
 
この日記を見て、母を連れて帰る決心をしました。
もう、文句を言う者はいないでしょう。
 
 
帰りに仏具屋さんに夫と寄り、母の初の『マイホーム』を見て帰りました
母の残してくれたお金で、とびっきり似合う素敵なのを選ぶよキラキラ
 
そして・・・ようやく一緒に暮らせます。
ずっと一緒にいられます。
(私は嫁に行った身なので、いつかは弟が引き取りますが、それまでの間)
 
 
日記を最後の最後に私に渡してくれたお母さん。
私を最後まで守ってくれたお母さん。
本当に本当にありがとうキラキラ
 
やっぱり、不思議な出来事の連続です
 
(今日も長くなりましたあせる