野菜が茹でてあるので、肉を炒めて煮るだけの簡単肉じゃがです。oisixのじゃがいもはいつも美味しいと思う。

母の日なので、母の話し。

私と母は仲良し親子ではなくて、割とあっさりした関係でした。

 私自身が何でも自分で決めたい性格で、母に相談することが殆どありませんでした。

 母も中学卒業して県外の会社で寮に入って働いていたので、自立心の強い方だったみたいです。

 私がほっておいても大丈夫と思ったのか、家事をしない事以外は殆ど口を出しませんでした。

 今思うと母の認知症が始まった頃くらいでしょうか。母と父は職場結婚なのですが、馴れ初めから結婚に至るまでの細かい話しをとうとうとし始めました。60年以上前の話しです。

 母の実家はまあまあ田舎で、入った会社は都市でもなく田舎でもなく郊外の町です。

 たいていの女性は働いて、貯金して地元に帰って結婚というパターンだったみたいです。

 でも母は田舎に帰るのがいやだったらしく、結婚して町に住みたいと思いました。

 が、母のいた会社は繊維会社で、男性はとても少なくていても田舎から来ている人が殆どでした。

 父は地元の出身で、電気専門学校に行き、会社の電気部に勤めていて若い頃はしゅっとしたイケメンでした。そんな父が20代後半で独身なので何か訳ありとは思うのですが…

 当時19歳の母は8歳歳上の父に猛アタックして、周りの反対を押し切って結婚しました。

 父はやはりもてていて、彼女がいたみたいですが、母の若さに負けたようです。

 また、父方の親戚は地元で商売とかしてて華やかな方が多かったので憧れもあったようです。

 実際地元出身でも、財産も土地も貯金もなく、病気がちの母親と引きこもりの兄を抱えた父でした。

 姑は程なくして亡くなり、ヒラ社員の父でしたが、高度成長でもあり母もパートで働き、贅沢もせず、家を建て、子供2人を育てました。

 父はコミュ障の所があり、人の気もちをおもんばかる人ではありませんが、無駄使いせず、生活は母に一任してました。

 母は振り返って、この町に住む事が出来て本当に良かった。電車の便も良く、色々な所に行けて、都会も近くて、幸せだったと繰り返していました。

 あれから認知症も進行し、そんな話も全くしなくなってしまいました。

 でもお母さんは幸せ者だったよという言葉を聞けて良かったと思います。 

 子供べったりの過保護な母ではなかったので、私はしたい事を邪魔されず好き勝手な人生歩けたので、母には感謝かな。