チワワの小太郎は10歳。ペットロスが怖くて、ちゃんと向き合えていない
先日、かかりつけの動物病院で小太郎の定期健診があった。診察台に乗せると、先生がいつものように体を触りながら、「うん、元気そうですね」と言ってくれた。体重2.5キロ。数値は安定している。心臓の雑音もまだない。歯石は少し気になるけれど、「この年齢にしては優秀です」と言われた。なぜか、その言葉で少し泣きそうになった。帰りの腕の中で、小太郎の温かさを感じながら、私はずっとそのことを考えていた。「この年齢にしては」という言葉が、じわじわと胸に染みてきて。小太郎は今年で10歳になった。10歳って、どういうことなんだろうチワワの10歳は、人間に換算すると56歳前後だと聞いたことがある。ということは今の私より少し若いくらい。そう思うとなんだか可笑しいような、でも全然笑えないような、不思議な気持ちになる。うちに来たのは小太郎が生後2ヶ月のときだった。まだ手のひらに乗るくらいの大きさで、目だけがやたらと大きくて、何をするにもいちいち大げさで。姿見に映った自分に向かって本気で吠えて、でも相手が引かないから困り果てていた。あの頃のことを思い出すと、今でも顔がほころぶ。10年、経ったんだな。別に何かが変わったわけじゃない。ご飯はよく食べるし、散歩に出ればまだ鼻をクンクンさせながら元気よく歩く。寝ている時間は確かに増えたけれど、私が台所に立てば起きてくる。名前を呼べばこちらを見る。私の隣に来たがる。でも、確かに何かが変わった気もする。うまく言葉にできないけれど。「老い」という言葉を、小太郎に使いたくなかったソファに飛び乗るのを、失敗した。先月だったか、小太郎がいつものようにソファに飛び乗ろうとして、前足だけかかって、ズルッと落ちた。本人はケロッとしていたし、怪我もなかった。でも私はその瞬間、息が止まりそうになった。一度きりだった。その後はまた普通に飛び乗っている。だから「たまたま」だと思う。思いたい。でも頭の中に、その光景がこびりついて離れない。たった一回の「ごくまれな失敗」に、こんなに動揺している自分に気づいて、少し驚いた。思えばずっと、そうだった。一応、脚のことを考えて布で出来た階段をソファの前に置いている。だが見事にスルーして飛びのるし、飛び降りる。ちゃんと使うようにしつければよかったか。後悔が胸をよぎる。10歳という年齢の節目が近づいてきたとき、なんとなくネットで「チワワ 平均寿命」と調べかけて、途中でやめた。数字が出てきたら、なんか怖くて。知りたいような、知りたくないような。こういうとき、自分の都合のよさが嫌になる。ペットロスという言葉が、急にリアルになってきた友人のTさんが、柴犬を亡くしたのは10年以上前のことだ。当時のTさんは本当に大変そうだった。ご飯が食べられなくなったと言っていた。朝起きると犬がいないことを思い出して、毎朝泣いたと言っていた。半年以上、立ち直れなかったと。正直に言う。そのとき私は、あまりよくわかっていなかった。話は聞いたし、気の毒だとも思った。でも「そんなに?」という気持ちが、心のどこかに確かにあった。ごめんなさい、Tさん。あのときの自分に言い聞かせたい。あれから10年以上経って、小太郎が来て、今の私はTさんの気持ちが怖いくらいわかる。「ペットロス」という言葉は前から知っていた。でも、知っているのと、自分ごととして感じるのはまるで別の話で。最近、小太郎が丸くなって眠っているのを見るたびに、ふと頭をよぎることがある。この子がいなくなったら、どうなるんだろう。考えたくなくて、考えてしまって、それで気持ちが落ち着かなくなって、結局小太郎を抱き上げてしまう。温かい。生きている。それだけで少し、ほっとする。夫は「そういうことは考えるな」と言う先日、夫に「小太郎のこと、ちょっと心配で」と話しかけた。夫の返事は「元気そうじゃないか。考えすぎだ」だった。……うん。まあ。夫はああいう人だから、それ以上追いかけなかった。悪意があるわけじゃないと知っているし、夫なりに「余計なことを心配させたくない」という気持ちもあるのかもしれない。でも正直、少し肩すかしをくらった感じはあった。小太郎は夫にもよくなつく。散歩も週に何回かは夫が連れていく。一見すると仲良し3人暮らしなんだけれど、こういう気持ちの話になると、なぜかいつも私ひとりで抱えているような気がしてしまう。まあ、そういうものらしい。怖いのは「別れ」だけじゃない、と気づいたペットロスへの怖さを掘り下げていくと、純粋な「悲しみ」とは別のものが混じっていることに気づく。小太郎がいなくなったら、私の日常はどうなるんだろう。朝起きて、まず小太郎のトイレを確認して、ご飯をあげて、散歩に行く。この流れが私の一日の土台になっている。誰かのために動く、ということ。誰かが待っている、ということ。その感覚が、実は私のリズムをずいぶん支えていたんだと、最近になって気づいた。息子たちはとっくに独立している。夫は……まあ、いるけれど。言葉を選ばずに言うと、小太郎が私の毎日のアンカーになっている。錨、みたいなもの。この子がいるから、朝ちゃんと起きる。この子がいるから、散歩がてら外に出る。この子がいるから、一人でいても一人じゃない気がする。その錨がなくなる日のことを、ちゃんと想像できない。今できることをしよう、と思い直している暗い話を書いてしまった、と自分でも思う。でも、これが正直なところなので。獣医さんに「この年齢にしては優秀」と言われた帰り道、抱っこひもの中で丸まった小太郎の頭に顔を埋めながら、私はこっそりこう思っていた。——もうちょっと、長生きしてほしい。当たり前すぎることを、真剣に祈っていた。今できることはある、とも思った。定期健診をきちんと続けること。食事に気をつけること。散歩を絶やさないこと。それから、抱っこできるうちに、たくさん抱っこしておくこと。大げさかもしれないけれど、「今この瞬間」を大事にする、というのがこんなに難しいと思わなかった。頭ではわかっているのに、日常の忙しさの中でいつの間にか流れてしまう。ちゃんと向き合えているかと聞かれたら、まだ向き合えていない気がする。小太郎が元気でいてくれることに、少し甘えている部分がある。でも、これがうちの今の現実で。小太郎は今日も、ソファの端っこで丸くなって寝ている。時々、夢でも見ているのか、足をぴくぴくさせながら。その寝顔を見るのが、好きだ。まだ慣れていない、この怖さに。でも、怖いということは、それだけ大切だということだと、少しずつ思い直している。美佐子