“ナゾの新終着駅”「敦賀」には何がある? | 2024年 京都産業大学ラグビー部を応援しょう…。

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北陸新幹線“ナゾの新終着駅”「敦賀」には何がある?

 

文春オンライン

 

 

北陸新幹線“ナゾの新終着駅”「敦賀」には何がある?

 

 北陸新幹線が延伸開業して、もうそろそろ2か月である。新幹線が延伸したということは、新しい終着駅が生まれたということでもある。

 

  【画像】 北陸新幹線“ナゾの新終着駅”「敦賀」を写真で一気に見る  

 

これまでは、東京から見たところの北陸新幹線の終着駅は金沢駅だった。それが延伸して誕生した新しい終着駅。それは、福井県の敦賀駅だ。  東京駅から敦賀駅までは、北陸新幹線のほとんど県庁所在地しか停まらない「かがやき」に乗って、3時間と20分くらい。東海道・山陽新幹線に例えれば、岡山駅をちょっと過ぎたくらいのところである。  ただし、北陸新幹線にこだわらなければ、これはちょっと遠回りだったりもする。実は敦賀駅、東京から行こうとするならば、東海道新幹線の「ひかり」にでも乗って(名古屋駅で「のぞみ」から「ひかり」に乗り継ぐパターンでもいい)米原駅で特急「しらさぎ」に乗り継ぐ方が30分ほど早い。  このあたりは乗り換え案内アプリでも使っていただければたちどころに最適解が出てくるので、ここでくどくど書く必要もあるまい。いずれにしても、北陸新幹線が延伸開業したことで、東京駅を出発する列車の終着駅ラインナップに「敦賀駅」が加わったことだけは間違いない。

「敦賀」が終着駅になると何が変わる?

 そこでさっそく北陸新幹線に乗って敦賀駅にやってきた。多少時間がかかるとはいえ、東京駅から乗り換えナシで行くことができるというのは、これはなかなかありがたい。ただし、これは関東人からの一方的な見方に過ぎないことは言うまでもなかろう。  東京とは反対、つまりは関西の人たちがこれまで福井や金沢といった北陸の諸都市を訪れようとしたら、特急「サンダーバード」に乗れば乗り換えナシ。それが北陸新幹線が延伸したおかげで、わざわざ敦賀駅で特急「サンダーバード」から新幹線に乗り継ぐ必要が生じてしまった。「これはかえって不便じゃないか」などと、あおり立てるような向きもあるようだ。

 確かに乗り継ぎは手間と言えば手間であることはまちがいない。ただ、あくまでも個人的な意見を言わせてもらえば、この程度の乗り換えならすぐに慣れるものだ。だいいち、これまで同じ北陸でも富山の人たちは、京都・大阪方面に向かうときには金沢駅での新幹線から特急への乗り換えを強いられてきた。彼らの思いを汲めば、敦賀駅での乗り換えくらいどうってことないはずだ。  それに、どうせ敦賀で乗り換えるなら、ちょっと時間をずらして敦賀の町中でも散策してみればいい。福井名物ヨーロッパ軒も、福井市内よりも敦賀市内のほうが待ち時間が短いとかなんだとか。と、まあそんなわけで、個人的に敦賀駅での乗り継ぎはそれほど大騒ぎするような問題ではないと思っている。  いずれにしても、敦賀駅が新幹線の終点になったことで、この駅は北陸方面を巡る交通ネットワークの要衝になったことだけは疑う余地がない。いままではあまり存在感がなかったかもしれないが、それが急に最重要ターミナルとして急浮上。これはもう、いったいどんな駅なのか、気になってたまらない。

新幹線改札を抜けるとなんだか床の色が…

 などと御託を並べつつ、敦賀駅に着いた。終着駅だからといって、駅そのものはどうということのない普通の駅だ。高架の新幹線ホームからエスカレーターでコンコースに降りる。乗り換えるお客が多いことを想定しているのか、コンコースは実に広い。  新幹線改札を抜けると、床を色分けして特急「サンダーバード」「しらさぎ」への乗り換えを案内している。トラメガを手にした警備員さんが、盛んに接続する特急列車の案内を繰り返す。一緒に新幹線を降りたお客のほとんども、特急列車のホームへとあっというまに消えていった。  ただ、こちらは特急には用はなく、目的は敦賀駅そのものだ。だから、ひとまず駅の外に出なければならない。ちょうど新幹線改札のすぐ脇に、駅の外に出られる自動改札がひっそりと。遠慮なく、そこにきっぷを差し込んで外に出た。「やまなみ口」などという名前がつけられているが、言い換えれば東口である。

東口に出る。広場にずいぶんひとけがないような…

 敦賀駅の東口。改札を抜けて階段を降りてやってきたそこには、なんだか殺風景な風景が広がっていた。もちろん、新しい新幹線のターミナルの駅前なのだから、よく整備されていてピカピカである。  ただ、人の気配がほとんどない。送迎のクルマやタクシーが並んでいることもなければ、客を待ち受けている飲食店や土産物店があるわけでもない。ただただ無味乾燥、ひとけのない広場といっていい。

 広場の向こうには、木ノ芽川という小さな川が流れている。川のさらに向こうには工場が建ち並び、遠くには北陸自動車道、そして滋賀と福井を隔てる山並みが横たわる。工場があるからトラックなどはいくらか走っているものの、新幹線の終着駅の駅前というイメージからはいささかかけ離れた敦賀駅の東口である。  タネを明かせば、敦賀駅の東口は敦賀の中心市街地とは反対側の出入口だ。だから、敦賀駅がどんな駅なのかを知りたければ、新幹線からは少し離れた西口に出なければならない。  ただし、敦賀駅には東西を連絡する自由通路の類いがあるわけではないので、東口方向からは遠回りをして新幹線の高架をくぐるか、入場券を買って通り抜けるしかない。乗り継ぎのついでに敦賀散策をしようと目論む皆さん、ご注意ください。

いざ西口へ。こちらはずいぶん様子がちがう

 そんなこんなで、敦賀駅の西口へ。新幹線開業以前、つまり在来線のホームに近い西口は、駅舎の規模こそ小さいけれど、駅前風景は実に立派なターミナルそのものだ。  新幹線にあわせて整備されたのだろうか、シックな色合いでまとめられたバスのりばなどがあり、駅舎の脇には「オルパーク」と名付けられた観光拠点のような施設が建つ。広場の傍らには「otta」という土産物店や飲食店が入った施設もある。  さらに、その周りにはビジネスホテルが勢揃いして取り囲む。さすが、新幹線のターミナル。いや、少なくともビジネスホテルは新幹線以前からあったものだろうから、敦賀という都市の存在感を示すものでもあるのだろう。

駅前の大通りをいく。歩みを進めていくと海が見えてきた

 敦賀駅前からは、北西に向かって大通りが延びている。歩道部分には屋根がかけられていて、飲食店なども建ち並ぶ駅前商店街だ。「敦賀シンボルロード」などと名付けられているようで、なぜか『銀河鉄道999』のオブジェが展示されている。  この道を少し歩くと、国道8号との交差点で待ち受けているのが「アル・プラザ」。滋賀県民にはおなじみのスーパーチェーン平和堂が運営する商業施設だ。

 アル・プラザの角を曲がって国道8号を北上すると、こちらも歩道側は商店街。その中を駅からだいたい20分歩くと、大きな鳥居が見えてきた。越前国一宮にして北陸道総鎮守、氣比神宮の大鳥居だ。敦賀という町は、氣比神宮の門前町という側面も持つ。だから、氣比神宮の周囲はまさに中心市街地といった様相だ。  敦賀市の人口は6万人ちょっと。だから中心市街地といっても福井市や金沢市などのそれとはさすがに規模は違う。が、それでも氣比神宮の南側にはプチ歓楽街もあったりして、大鳥居からまっすぐ西に延びる通りともども、地域の中心らしい雰囲気を漂わせている。  さらに歩みを進めていくと、駅から30分くらいで海が見えてくる。東も西も山に囲まれる敦賀湾。西の端には気比の松原が広がり、その周囲には民宿なども建ち並ぶ。いくらか駅に近い東端には敦賀港。港を取り巻くようにして、赤レンガ倉庫や敦賀鉄道資料館などの観光施設が集まっている。そして、赤レンガ倉庫の裏手にゆくと、いまは使われていない線路が残されていた。

じつは「日本の鉄道最初期」から計画されていた「敦賀」への線路

 敦賀駅が開業したのは、1882年のことだ。2年後には滋賀県との間の山を貫くトンネルが通り、長浜~敦賀がつながった。新橋~横浜間の開業からは10年ほど遅れているが、計画そのものは新橋~横浜間と同じ時点、1869年に明治政府によって決定されている。東京~横浜、京都~神戸と並び、琵琶湖周辺と敦賀を結ぶ鉄道が最初期に計画されたのだ。  これは、敦賀が日本海側の要港のひとつだったからだ。古くから天然の良港として栄え、日本海側の物資は敦賀から陸路で山を越えて京・大坂まで運ばれていた。江戸時代に西廻り航路が開設されると敦賀経由の陸路は廃れるが、鉄道がいち早くやってきたことで、敦賀は要港としての地位を再び取り戻すことになる。

 開業当時の敦賀駅はいまの場所とは違い、氣比神宮の南西側に位置していたという。さらに、線路は港まで続いていて、金ヶ崎駅(のち敦賀港駅)が設けられていた。  敦賀港は1899年には開港場に指定され、1902年にはロシアのウラジオストクとを結ぶ定期航路が開かれる。赤レンガ倉庫が建てられたのは1905年のこと。輸入された石油の貯蔵庫として建設されたものだ。

今から100年ちょっと前、1枚の切符で東京からヨーロッパまで旅が出来た

 1912年には、「欧亜国際連絡列車」が運行を開始する。東京(新橋)から敦賀へ、敦賀からは船に乗り継ぎウラジオストク。シベリア鉄道で西を目指してヨーロッパまで。間に海を挟むからもちろんひとつの列車に乗りっぱなしというわけでないが、東京からヨーロッパまで一枚のきっぷで旅することができるようになった。その重要な中継点のひとつが、敦賀という町だった。  敦賀を介する欧亜国際連絡列車は、実に多くの人々に使われている。たとえば、日本が初めて参加した1912年のストックホルムオリンピック。選手団は、敦賀から船に乗って遠くスウェーデンまで旅をした。  戦時中には杉原千畝が発行した「命のビザ」を手にしたユダヤ難民が上陸したのも敦賀の地。いま、敦賀港の脇には「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館が建っている。

 

姿を消した欧亜国際連絡列車は戦後…

 欧亜国際連絡列車は、第二次世界大戦の激化によっていつしか姿を消した。敦賀駅から敦賀港駅までの支線は半ば貨物専用となり、1987年に旅客営業を正式に廃止。2009年限りで貨物列車も消え、2019年に廃線になった。  こうして海外に開かれた海陸連絡都市・敦賀が歴史の向こうに消えたところで、今年になって開業したのが新幹線の敦賀駅なのだ。  だから、敦賀駅で降りたら、多少時間がかかっても駅から海まで歩きたい。かつてここからシベリア、そしてヨーロッパに向けて旅をした人たちがいた。駅前の大通りに『銀河鉄道999』のオブジェが置かれているのは、敦賀の町にこうした歴史があるから、なのだという。こんな歴史を垣間見れば、敦賀駅での新幹線と特急との乗り継ぎなんて、ちっぽけなものではないか。  いまは敦賀港から海外への国際旅客航路は存在しない。だが、いつかまた、敦賀駅で新幹線を降りて、海を渡って海外へ。そんな旅が実現することがあれば、なかなかロマンチックではないかと思う。いずれにしても、敦賀という新たな新幹線の終着駅は、ただの終着駅ではないのである。