【光る君へ】藤原道長の人生にも影響? 京都市中を襲った疫病の正体とは何か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

 

 

 

 

 

(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、疫病で人々が死に絶える場面が描かれていた。その点について、詳しく取り上げることにしよう。

 

 古い時代になればなるほど、疫病は人々にとって脅威となった。いうまでもなく医学が進んでいない時代でもあり、せいぜい薬草を煎じて飲むのが治療の一つだった。あとは、神仏に祈るしかなかったのである。

 

 奈良時代には、藤原不比等の4人の子供(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで亡くなったが、死因は痘瘡(天然痘)だったといわれている。

 

 正暦5年(994)、京都市中を襲ったのが赤班瘡(麻疹)である。歴史物語の『栄花物語』には、次のとおり書かれている。

 

 はかなく年も暮れて、正暦五年といふ。いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ(患う)人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり。

 

 正暦5年(994)になって、世の中が騒がしくなったが、それは春から病気になる人が多く、道に死体や病人が多かったからということになろう。この疫病は、前年から大宰府から広まったという。大宰府では、官人や人々が疫病に罹り、死体で道が塞がれるほどだった。それが、京都に蔓延したというのである。

 

 『本朝世紀』によると、疫病が流行ったので、道に仮屋を作り病人を収容したという。病人を背負ったり、車に乗せたりして薬王寺に運んだが、助からない者が多く、道に死体が溢れていた。往来する者は、死臭に耐えかねて鼻をつまんでいたのである。

 

 疫病は、翌長徳元年(995)になっても終息せず、ようやく下火になったのは、同年の8月頃だった。その間、公卿だけでも8人が病没したのである。この頃、相次いで藤原道隆・道兼兄弟も亡くなったが、死因は疫病ではないかといわれている。

 

 道長は四男だったが、兄が相次いで亡くなったので、後継者の座が回ってきた。もし、疫病が蔓延しなかったら、その後の道長が栄達を極められなかった可能性がある。