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「結婚が子供をつくるわけじゃない」国民的美少女が人気絶頂で熱愛・事実婚…後藤久美子50歳が選んだ“道”

 

 

1980年後半、日本がバブル景気に入ろうかという頃、テレビではおニャン子クラブに代表される、どこにでもいそうで親しみやすいアイドルが人気を集めていた。そこへ一人の少女が現れ、「美少女ブーム」に火をつける。彼女は12歳の誕生日と中学入学を目前にした1986年3月24日、NHKで放送されたドラマ『テレビの国のアリス』に主演し、俳優デビューを果たした。

 もともとCMに出たかったという彼女は、小学4年のときに芸能事務所・オスカープロモーションのモデルオーディションに応募し、4万8000人のなかから1位に選ばれた。事務所側は採用に際し、彼女の美少女ぶりもさることながら、その印象的な目が“役者の目”だと直感し、単発的なアイドルで終わらせず、長期的に俳優として育てていくべく計画を立てたという(『èf』1987年6月号)。こうして将来を嘱望されながらデビューした少女こそ、後藤久美子であった。それから38年、彼女はきょう3月26日、50歳の誕生日を迎えた。

 

 

 

©時事通信社

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「ゴクミ」が流行語に

 後藤はデビュー後、1986年夏にドラマ『続・たけしくんハイ!』にヒロイン役で出演、秋に放送が始まったビデオテープのCMで一躍注目される。さらに翌1987年には大河ドラマ『独眼竜政宗』で戦国武将・伊達政宗に嫁いだ愛姫(めごひめ)の少女時代を演じたほか、中山美穂と義母・娘役で共演した『ママはアイドル!』も話題を呼ぶ。彼女と同学年の宮沢りえが「三井のリハウス」のCMで注目されたのもこの年で、美少女ブームは親友どうしでもある二人を中心に巻き起こった。後藤の名前を縮めた愛称「ゴクミ」はこの年の新語・流行語大賞で流行語部門の銅賞も受賞する。

 当時の後藤は「国民的美少女」とも称され、ここからオスカー主催による大規模オーディション「全日本国民的美少女コンテスト」も生まれた。彼女をイメージキャラクターに据えたこのコンテストからは、米倉涼子や上戸彩、近年では髙橋ひかるなどが輩出された。

 

 

 今年正月に放送されたテレビ朝日開局65周年記念ドラマ『顔』(松本清張原作)では、やはり同コンテスト出身の武井咲と後藤がダブル主演で共演した。後藤の役どころは、武井演じる殺人犯と複雑な関係を持つ弁護士で、仕事はクールにこなしながらも、家では母親として多感な年頃の娘との関係に悩む姿を見事に演じ分けていた。後述するように妊娠を機に俳優業を休止した彼女にとってドラマ出演はじつに30年ぶりで、子供のいる母親役は初めてだった。

挑発的な言動も…

 後藤は美少女ともてはやされていた1987年、坂本龍一のプロデュースにより、その独特の感覚の発言をまとめた『ゴクミ語録』(角川文庫)を刊行し、ベストセラーとなった。同書をいま読むと、彼女を苛立たせる出来事や人物が「ムカツク」という言葉とともに語られた箇所が随所に目につく。やはり苛立ちのせいか、成長するにしたがいマスコミに挑発的な言動をとり、批判されることもしばしばであった。

 当の後藤ものちに10代を振り返り、《学校と仕事と私生活とで、すべてがままならなくて。『周りの人間は皆敵だ』ぐらいに思い込んじゃったのね。あの時は辛かった。でも、いろいろな人に助けられて、私自身も余裕ができてきて、そういう時期が長くは続かなかったから良かったんだけれど》と明かしている(後藤久美子『ゴクミ』講談社、2009年)。

 俳優業は傍目には順調に見えた。1989年からは国民的映画『男はつらいよ』に1995年まで4作連続でマドンナ役に起用され、渥美清扮する寅さんの甥・満男(吉岡秀隆)の初恋相手・及川泉を演じた。1991年の大河ドラマ『太平記』で演じた美少年、南北朝時代の公卿・武将の北畠顕家も印象に残る。

「女優」への抵抗

 ドラマ『火の用心』(1990年)出演時には脚本家の倉本聰と交流を持つようになる。1992年の倉本との対談では、《世間では“女優業専念”、そんな感じでいわれるけど、ワタシは自分で他にも勉強したいことがたくさんあるから、それを続けていけば女優という仕事だけにはならないと思って》と語っていた(『週刊プレイボーイ』1992年2月18日号)。ちょうど高校卒業を控え、大学には進学しないと公言していたため、世間では仕事に専念するものと見られていたのだ。

 もともと勉強が好きで、当時から英会話学校に通ったりしていた。仕事のための勉強も欠かさず、若者向けのアメリカ映画のビデオを片っ端から借りて観たりした。『男はつらいよ』の現場では、《きちんとお芝居をしなければならない仕事をしているんだ、きちっと何かをしなければならない仕事をしているんだと気づきました》と(『Bart』1995年9月11日号)、学んだものも大きかった。

 

 

 しかし、女優と呼ばれることには、デビューから10年近く経っても抵抗感を拭えなかったようだ。《女優って、たぶん年齢的に30歳ぐらいから呼ばれるに値するものだと思うんですよ。だから、まだ、逃げなのかもしれないけれど子役と思われたいな。職業を書く必要がある時は役者と書きますが、女優とは書けない》とは、21歳のときの発言だ(『Bart』前掲号)。

アレジとの熱愛

 他方でこのころは結婚に強く憧れていた。それも、仕事から逃げ出すため、仕事をやめさせてくれる人と結婚したいと思っていたという。一時は激しい恋をし、その相手と一緒になるものと思っていたが、突如としてとくに喧嘩も、話し合うこともなく、別れてしまった。《それで、ああそうか、結婚して仕事をやめたいとか、何かそういうことを思っても、すぐに訪れるものではない、と。私には、そういうことは、きっともっとうんと後になってからくるものなんだと思っていた時に》(前掲、『ゴクミ』)、出会ったのが、現在の伴侶で、F1レーサーだったジャン・アレジである。

 アレジとの出会いは1993年10月のF1日本グランプリで、まもなくして交際が始まったという。二人の関係はそれから1年あまりのちに女性週刊誌で報じられて発覚したが、当初のマスコミの反応は、相手がトップレーサーだけに半信半疑という感じであった。しかし、後藤は本気であった。1995年には彼との交際を公表する。

 ちょうどそのころ、映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の撮影中、照明待ちをしていると監督の山田洋次がなぜか英語で“I have a question for you.”と話しかけてきた。「はい、なんですか」と後藤が受けると、「あなたは、このあとどうするんですか」と訊かれる。これに彼女は「どうしようかと思っています。監督はどう思いますか?」と逆に訊き返した。すると監督は「やっと蕾(つぼみ)になったところで、なんだか惜しいなと思っている」というようなことを言ったという(『パピルス』2005年12月号)。

「結婚には別に興味ないんですよ」

 彼女は監督の言葉に少し引っかかりを覚えながらも、それでも自分の決断を信じようと思い、芸能界から事実上引退した。アレジとは婚姻届は出さず、事実婚であった。交際を発表直後のインタビューでは、《結婚には別に興味ないんですよ、今》と語る一方、子供については《私にしてみれば別なんですよ。別に結婚が子供をつくるわけじゃない》、《愛し合うことが子供をつくるんであって、紙にサインしたからといって、子供ができるわけじゃないじゃないですか》と語っていた(『週刊文春』1995年6月1日号)。

 22歳になった1996年、第一子である長女・エレナを授かったのを機に、アレジの母国であるフランスに渡り、一緒に生活を始めた。それまでの人気やキャリアを振り切っての決断は人々を驚かせたが、彼女としてみれば《感覚としては学業を続けるか続けないかで迷ったときと同じくらいで一大決心をしたつもりもなく『いつでも戻れる』という気持ちがありました》という(『Numéro TOKYO』2020年2月号)。

 別のところでは、あのまま仕事を続けていたら《自分の現実の人生ではない、別の人の人生を演じることが面白くなっていたかもしれない》と想像しつつ、《でも、そうすると自分の人生は空っぽになっていたかもしれない。私は、軽く、器用にこなせないタイプで、性格が現実的なんです。やっぱり虚構の生活より、自分の現実の人生を重視して生きたかった。それがジャンと生きることを選んだ理由だと思う》とも語っている(前掲、『ゴクミ』)。

フランスでのセレブな生活

 家族との海外での暮らしぶりは、折に触れて雑誌で紹介された。それはまさにセレブリティの生活を絵に描いたようであった。しかし、フランス・アビニョンの別荘に取材スタッフを招いたときには、後藤自ら全員にワインや手料理を振る舞うなど、そこにおごりはまったく感じられない。本人はそんなセレブな生活について、《もともとハイレベルなものに対して、驚くタイプじゃないのね。だってそれは私にとって重要なことではないから。もっとほかに大切なことがあると思うから。今はたまたまこういう暮らしになっただけです》と、客観的にとらえていた(『パピルス』前掲号)。

 上記は2005年の発言だが、同じインタビューでは、《今の時点で、女優の仕事に復帰するということは、あまり考えていないですね。/監督に求められる芝居をきちんとできているかと言われると、まったく自信がないので。(中略)それに、今は現実の、日々の生活が忙しく、またそれが楽しい。毎日の生活でアップアップだもの》と語っていた(『パピルス』前掲号)。このころ、彼女の生活の中心はやはり子育てだった。

 結局、俳優業からはその後も10年以上離れることになる。この間、両親の才能を引き継ぐように、長女の後藤エレナは女優にして実業家に、長男のジュリアーノはレーシングドライバーとなった(末っ子の次男は現在、高校生)。

23年ぶりの現場復帰

 子供たちがそれぞれの道に進むなか、後藤も2018年、翌年公開の映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』でじつに23年ぶりに俳優として現場復帰する。『男はつらいよ』の映画50周年を記念した同作で、後藤演じる泉は満男とは結婚せず、ヨーロッパに渡って外国人と結婚、国連難民高等弁務官事務所の職員として世界中を飛び回っていた。そこにはもちろん、後藤のそれまで23年間の実人生が反映されている。

 山田監督から寅さんの続編をつくるという話があったのは撮影の2、3年前で、「久美子ちゃん、いいお返事を期待してますよ」とノーとは言わせないような言い方であったらしい。電話で話を聞かされ、すぐに相手役の吉岡秀隆に「吉岡君、大変だ!」と電話したという。監督からはその後、彼女が現在住むスイスの自宅へ正式に出演依頼の手紙が届き、出演を決めた。

「私の人生、すべてプライベートですから」

 前出の『顔』では、後藤演じる弁護士が殺人を犯しそうになる場面もあった。放送前の雑誌記事では、それを念頭に置いてか、《これからは、女優としての幅をもっと広げていきたい。たとえば罪を犯す側の人間の心理を、うまく表現できるようになりたいと思っています》と今後の抱負も述べていた(『週刊現代』2023年12月23日号)。

 ただ、『お帰り 寅さん』公開時のインタビューでは、《私の人生、すべてプライベートですから。好きに私生活歩んでますよ》と(『週刊朝日』2019年12月27日号)、自分の軸はあくまで現実の生活にあるとほのめかすような発言もしている。後藤が今後も俳優の仕事を継続するのであれば、役に実人生を溶け込ませながら演じていくことになるのだろうか。いずれにせよ、年齢からいっても、そして近作での演技からいっても、かつて抵抗感を示していた「女優」と呼んでももはや差し支えのない域に後藤久美子は到達している。

(近藤 正高)