飛び出すハートおまけコーナ

 

〈 身長170cm、空手で日本一になった女優・宮原華音(27)のスゴすぎる幼少期「対戦相手が棄権することも…」〈プロ格闘技デビュー〉 〉から続く

 プロ格闘家としても活躍する女優の宮原華音(27)。

 昨年4月の立ち技格闘技「RISE」でのプロデビュー戦にて1RKO勝利を果たした彼女に、モデルを目指すもオーディションに落ち続けた中学生時代、史上最年少となった三愛水着イメージガールの就任、イメージガール就任中の誹謗中傷などについて、話を聞いた。(全3回の2回目/ 続き を読む)

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自分の写真が思ってたより大きく掲載されてびっくり

ーー「ニコ☆プチ」読者モデルへの応募は、自分で?

宮原華音(以下、宮原) はい。お母さんに顔のアップと全身の写真を撮ってもらって、オーディション用紙を書いて一緒に送りました。

宮原華音さん

宮原華音さん© 文春オンライン

ーー応募用の写真は、おしゃれをして。

宮原 さすがにジャージじゃないです(笑)。ナルミヤのエンジェルブルーのやつを1点買って、おばあちゃんにメゾピアノか組曲でなにか1点買ってもらって。残りは、しまむらで揃えて、それで写真を撮って応募して。

ーー受かる自信はありましたか。

宮原 なかったです。でも、1回目で受かって撮影したら、自分が思ってたよりも大きい扱いで写真が載ってたんですよ。

ーー受かる自信がなかっただけに、撮影に行けたときは感無量ですよね。

宮原 メチャクチャうれしかったんですけど、撮影に行ったら戸惑ってしまって。私は化粧をしたことがなかったので、何もしないで行ったんですけど、ほかの子たちは化粧をしっかりしてて、髪の毛もかわいくしていたから「エッ、小学生なのにみんなすごい」って。

 

 

 そこで、「自分には、この身長しかない!」と思いましたね。

ーーほかに高身長の方は。

宮原 いなかったですね。みんな150センチくらいだったと思います。

撮影には呼ばれたり、呼ばれなかったり…

ーー撮影時に、空手をやっていた影響が出たりしませんでしたか。

宮原 普通の女の子よりは、ガサツさがすごかったと思います(笑)。いまでもそうなんですけど、脚を開きがちだったり、ガニ股で歩いたり。

ーー「ニコ☆プチ」掲載は、小学校で騒ぎになったのでは。「でかのん」と呼んでいた男子を見返したくて応募したところもあったわけですし。

宮原 女の子たちの何人かは、私が「ニコ☆プチ」に載ったのを知っていて「すごい!」と言ってくれましたね。

 載ったのを知った男の子たちは「エッ?」となってましたけど、「なんで、お前なんかが載れてんだよ。かわいくねえのに」みたいに言ってきましたね。

ーー「ニコ☆プチ」時代は忙しかったですか。

宮原 全然です。撮影は月イチだったので。呼ばれない月もありますし、呼ばれても撮影は1日で終わることがほとんどでした。

陸上部に入部後、いきなり大会で1位に

ーー読者モデルから先に進めなかったことで「このままじゃ終われないな」と奮起したと。

宮原 「二コ☆プチ」の読者モデルができるのは小学生までで、その間に読者モデルから専属モデルに上がれなかったんですよ。それが悔しくて、中学生になってからはオーディション雑誌で応募できるオーディションを探しまくっていましたね。

ーーモデルとしてオーデションを受ける傍ら、中学3年生の時に、第25回東京都中学生空手道選手権大会で準優勝していますよね。中学に進んでも空手は続けようと思っていた?

宮原 そうですね。ただ私の学校に空手部はなかったので、習い事として続けていました。

 担任がバレー部の顧問をやっていて、「入ったら?」とずっと言われてましたけど、バレー部は練習も多かったりで、空手を習う時間を取られるから入りたくなくて。

 

 

 なにかしら部活をやらないといけない空気もあったし、自分としても少しでも体力を付けられたらいいなと思っていたので、部活には入っておきたくて。空手と両立できる部活はないかなと考えて入ったのが、陸上部でした。個人競技だし、いいかなって。

ーー陸上の個人競技といっても、いろいろありますが。

宮原 最初は100メートルの短距離をやっていて、いきなり出た大会で1位になって。だけど、腰を疲労骨折しちゃって走れなくなっちゃったので、砲丸をやることにして。砲丸では、都大会で8位まで行きました。

砲丸投げで自分なりの投げ方を貫く

ーー腰の疲労骨折は、空手が原因ですか?

宮原 空手です。練習のしすぎが原因の疲労骨折で。小学生で両膝の半月板もやってますし。

ーー腰を折った後に砲丸投げって、大丈夫でしたか。

宮原 ピッて投げてただけなので。だから、あんまり考えずにやっちゃってましたね。小学生のときは、膝にサポーターして運動会に出てましたし。

 陸上部って、活動自体がほんとに緩かったんです。練習もあまりなかったし、「空手の大会前なので、今日は休みます」と言ってもOKしてくれました。そんな雰囲気の陸上部だったから、入ったので。

 たしか、砲丸投げって、ちょっと成績が伸びてきたら投げ方を変えるんですよね。でも私は自分なりの投げ方を貫いていたので、地区大会の決勝で、何も助走を付けずに投げていて。

 みんな「そこでもう投げちゃうの?」みたいな(笑)。強豪校だと、「行きまーす」って感じで、周りが盛り上げて、声を出して投げたりしてるんですけど、私はそんなノリじゃなくて。いきなりピッて投げて、ドーンっていう。

三愛水着イメージガールに合格

ーー空手も陸上も順調だった中学時代でしたが、オーディションだけは苦節の3年間でもあったと。

宮原 「ニコラ」「Hana*chu→」「ピチレモン」とかも受けましたけど、全部落ちてしまって。書類すら通らなかったです。モデルの仕事は、ほぼやってないですね。

 事務所にも入ってなかったんですよね。スカウトはされましたけど、調べてみたら怪しい感じの事務所だったりすることが多くて。もう、事務所に入らないでいいかって。

ーーオーディションでは、空手を売りに。

宮原 みんなはダンスや歌を特技として披露するんですけど、私は空手の型を見せたりして(笑)。審査員の方々は「おお~」なんて盛り上がりますけど、そのあとは「で?」って感じでした。やっぱり、空手がモデルにつながるイメージがないんでしょうね。

 通学で履くローファーのメーカーで、ハルタさんってあるじゃないですか。そこのカタログのオーディションで最終まで残って、「まだ、ちょっと希望があるのかも……」と思い始めて。それで三愛の水着イメージガールに応募したら、受かったんです。受かったときは信じられなかったですね。4次審査くらいまであったので。

ネットでは心ない誹謗中傷を書かれ…

ーー史上最年少の三愛水着イメージガールですよね。

宮原 15歳でイメージガールに選ばれたのは、初めてだったそうです。あと、事務所に入っていなかったので、一般応募で選ばれたんですけど、それも初めてで。

 そういうこともあって「15歳だと、まだ早いかもしれない」と、三愛さんが時間をかけて両親にいろいろお話をしてくれて。

 やっぱり、水着になる仕事だし、「いままで掛けられたことのないような言葉をかけられることもあります」ってことで、もし不安だったら断ってもいいとも言ってくれました。

ーー「いままで掛けられたことのないような言葉」というのは、誹謗中傷のことですか。

宮原 そうですね。三愛さんは、それをものすごく心配してくれていたんです。実際、イメージガールに就任してから「ヘソの形が汚いのに、水着のモデルをやるな」とかネットで書かれましたから(笑)。私のヘソ、風船の口みたいに見えるんですよ。いろいろ書かれたけど、「こんなの選んで、三愛は金なくなったんか?」って言われたのが一番悲しかったです。

 三愛のみなさん、すごい優しいんですよ。ほんと、自分の家族のようにずっと付いてくれて、ものすごく私のことを気にかけてくれたんです。だから、三愛さんのことを悪く言われるのが、自分のことを言われるよりも辛くて。

水着になることに抵抗はなかった

ーー選出されたのは、2011年ですよね。

宮原 そうです。中3だった2011年に、2012年度のイメージガールに選ばれました。で、高1になってイメージガールとしての活動を1年間していましたね。ショーに出たり、カタログの撮影をしたり。

ーー水着になることに抵抗はなかったのでしょうか。

宮原 なんの抵抗もなかったです。恥ずかしいって気持ちはまったくなくて、なんなら撮影で一緒になったモデルさんたちがキレイすぎて、いろいろ話しかけちゃったりして。「脚の長さ、どうなっているんですか!」とか。その方をふくめ、みんな優しくて、ショーの前にウォーキングのレッスンをしてくれたり。

 両親もなにも言わなかったですね。ただ、歴代の三愛水着イメージガールって、杉本有美さん、木下優樹菜さん、菜々緒さんと、すごい方々ばかりじゃないですか。それで「大丈夫? やっていける?」とは、言われました。

自分がなりたかったのは“中高生”のモデル

ーーイメージガールに選出された際、中学では「ニコ☆プチ」掲載を上回る反響だったのでは。

宮原 「就任しました」っていうのがニュースかなんかに出たみたいで、男の子たちから「おまえ、テレビ出てたじゃん」とか「すげえじゃん」って騒がれましたね。「ニコ☆プチ」のときは「なんで、お前なんかが載れてんだよ」なんて言ってたから、「こいつら~」と思いましたけど(笑)。

 逆に今度は、仲の良かった女の子たちのほうが引いた感じになっちゃって。「え、聞いてないんだけど……」「なんで、言ってくれなかったの?」って反応で。女の子たちが引いちゃったぶん、男の子たちがそう言ってくれてありがたかったですね。

 ただ、時期的なこともあったんだと思うんです。中3の11月っていう、みんなが受験勉強を頑張ってるなかで「イメージガールに就任しました」っていうのを知ったり、聞いたりしたら、「なにしてんの?」とは思っちゃうだろうし。「一緒の高校行こうって言ったじゃん」みたいな。

ーー三愛水着イメージガールを機に、高校から本格的に芸能活動を始めようと。

宮原 「モデルになりたい」といっても、自分がなりたかったのは中高生のモデルなんですよ。「なんか雑誌に出れたらいいな」ってノリで。あくまで高身長を活かしてできることと捉えていて、モデルを将来の職業としては考えてなかったです。

 高校は私立の空手強豪校に入ってますし。なんだかんだで、結局は空手になってました。といっても、その高校はいろいろあって1年でやめちゃうんです。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

〈 「開始39秒でKO勝利」試合直後にラウンドガールも務めた女優・宮原華音(27)がプロ格闘家デビューしたワケ〈筋骨隆々な足上げポーズ〉 〉へ続く

(平田 裕介)

「開始39秒でKO勝利」試合直後にラウンドガールも務めた女優・宮原華音(27)がプロ格闘家デビューしたワケ〈筋骨隆々な足上げポーズ〉

宮原華音インタビュー#3

平田 裕介

 

 

 プロ格闘家としても活躍する女優の宮原華音(27)。

 昨年4月の立ち技格闘技「RISE」でのプロデビュー戦にて1RKO勝利を果たした彼女に、入学した空手強豪校の過酷な環境、映画初主演を飾った『ハイキック・エンジェルス』での足首骨折、試合直後にラウンドガールも務めた「RISE」の様子などについて、話を聞いた。(全3回の3回目/最初から読む)

 

 

 

厳しい部則、ケガ… 1年足らずで高校を退学

ーー私立の空手強豪校に進んだとのことですが、空手で推薦入学を?

宮原華音(以下、宮原) 推薦をもらっていたんですけど、高1まで三愛水着ガールをやらせていただいていて、休むことも多いから「普通に入ります」と言って、そうさせてもらいました。

 やっぱり特待生で入っていろいろと免除してもらうのに、休んだりして迷惑をかけるわけにもいかないじゃないですか。

宮原華音さん

宮原華音さん

ーー空手部にも入部されたのですか。

宮原 はい。私は東京都の上位だったんですけど、神奈川県の1、2位の子もいて、やっぱり強豪校なだけはありましたね。だから、負けないようにだけはしていました。1年生でレギュラーは絶対に取ると決めていて、実際に取りました。

 もうひとつ決めていたのが、髪を短くしないこと。なんとなくですけど、髪の毛を切らなきゃいけない雰囲気があったんですよ。顧問も「髪なんて、一生懸命やってたら邪魔になるだけだから」みたいなことを言っていて。私だけロングだったので、えらく気まずかったんですけど、ずっとロングだけは守ってました。

ーーなかなか厳しそうな空手部ですね。

宮原 まぁまぁ地獄でしたね(笑)。いまでも同期の子たちには仲良くしてもらってますし、楽しかったことも多いんですが、「そこまでする?」っていうレベルで部則は厳しかったです。恋愛禁止、SNS禁止、LINE禁止。私は通いだったんですけど、駅から学校までの歩く態度とかもチェックされて。顧問が担任だったから、常に監視状態で。

 ケガもしちゃったし、映画の話もいただいたので、その高校を1年足らずで退学して。高2で、日本芸術高等学園に編入したんです。

 

 

「『ハイキック・ガール!』ヤバい!」とXに書いたら監督からリプが

ーー話が来た映画は、主演を務めた『ハイキック・エンジェルス』(2014年)ですか。

宮原 そうなんですけど、最初から主演に決まっていたとかではなくて「練習に来ない?」って誘われたんです。この話には前振りがあって、私が武田梨奈さんが主演した『ハイキック・ガール!』(2009年)を見てものすごい衝撃を受けたんですよ。

 で、Twitter(現X)に「武田梨菜さん、すごい! 『ハイキック・ガール!』、ヤバい!」って書いたら、その監督を務めた西冬彦さんがエゴサしてたみたいで、「じゃあ、今度一緒に練習してみない?」的なリプが来て。

 

「西冬彦とは?」と思ってたら、監督から「映画に向けて一緒に練習したいので」って連絡が事務所のほうに来たんです。

ーー『ハイキック・ガール!』を見たきっかけは。

宮原 映像作品って、まったく興味がなかったんですよ。見てもドラマの『ごくせん』とか『ROOKIES (ルーキーズ)』くらいで。

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『ハイキック・ガール!』は、道場の人たちに「見てごらん。マジですごいから」って言われて、何の気なしに見てみたら「ヤバい……」って。

 

 

カンフー映画や稽古でなんとか技を覚えて撮影

ーー『ハイキック・エンジェルス』で演じたのは、高校のアクション映画部に所属するカンフー少女。ずっと空手をやってきたゆえに、カンフーのフォームでアクションするのに苦労したとのことですが。

宮原 すんなりとはいかなかったですね。撮影に入るまでの稽古期間が4ヶ月くらいあって、その間に私がなにが得意なのかを西さんがチェックしてくれて。飛び蹴り系が得意ということで、そのあたりの技を盛り込もうとか進めていって。

 あと、ジャッキー・チェンとかブルース・リーとかの映画のDVDをドドッと渡されて、「このモノマネをするだけでもいいから」と言われて。それでも、ジャッキーなんて戦ってる最中におちゃらけたりするじゃないですか。そういう加減なんかもわからなくて「どうしたらいいんだろう?」ってすごく悩みました。

 西監督から「お前は、いまサモ・ハン・キンポーだから」と言われても「どういうこと?」だったし、「これが『死亡遊戯』のあれだよ」とか言われても「どこですか?」って状態で。でも、1日6時間ぐらい稽古に付き合ってくれたのもあって撮影までにはなんとか覚えていきましたね。

 

 

撮影序盤で足首を骨折

ーー撮影自体は楽しくできましたか。

宮原 楽しかったのと、しんどかったのと、半々でした。撮影期間は2週間ほどだったんですけど、私、2日目ぐらいに左足首を骨折しちゃって。

 骨折したときは、痛くなかったから気づかなくて。撮影が終わって、お風呂とかご飯を済ませて、共演してる子たちと一緒にいたら足が真紫になっていて。撮影初日にブヨに刺されてたので、毒が足首に回ったと思ったんですよ。でも、色が色だから「これじゃあ大変なことになる」と焦ってきて、監督とプロデューサーに「すいません、足が真紫になっちゃって。昨日のブヨかも」と言ったら、真夜中だったけど皮膚科に連れてってくれて。

 そうしたら「これは足が折れてるので、整形外科に行ってください」となって、整形外科に行ったら「すぐに固定しましょう」と。「いま映画の撮影中だから、サポーターにしてください」って先生にお願いして。

 

ーー足首は変色していただけ。

宮原 よく見たら、めちゃくちゃ腫れてました。足の中心部のほうが折れていて、体重が掛からないとそれほど痛まなかったようなんですよ。それで痛くなかったようです。

 だから、サポーターでも大丈夫でしたね。撮影では、足首の骨折以外にも怪我することが多くて、その度に監督やプロデューサーが両親にも連絡してくださったんですけど、親は「動けてるんですよね? じゃあ大丈夫です」って(笑)。

 

 

映画を通じて“体を動かすことが好き”というのを再確認

ーー楽しさとしんどさが半々だったそうですが、俳優の楽しさみたいなものに目覚めたのでは。

宮原 「俳優って楽しいな」というよりも「アクションって楽しいな」って感じでしたね。やっぱり自分は体を動かすことが好きなんだなって再確認したというか。

 

 

ーー映画で主演する一方で、空手のほうはどんな感じだったのでしょう。

宮原 もう、選手になろうとは思わなかったですね。あちこちの怪我が結構つらかったし、怪我で休んだときのブランクも長すぎて。一緒に空手をやってた子たちは高3でインターハイ優勝するっていう目標を掲げていたので、私は高3までに何かの主役を取ろうって頑張っていた感じですね。

芸能界で成功したら退学する覚悟で進学

ーー日本体育大学に進まれていますが、空手が絡んでの入学ではなかったのですか。

宮原 裏方のほうに興味を持って、柔道整復師の資格が取れる学部に入ったんです。自分が怪我することが多かったのもあるし、舞台や映画の現場で怪我をする方って結構多くて。そういう怪我した方を目にしてきて、支えられたらなって気持ちがあって。あと、女優として食べていける気がしなかったので、手に職を付けたいとも考えて入りました。

 空手自体は好きだったので、大学に入学してからも地元の道場に顔を出して、ちっちゃい子たちと遊んだり、軽く教えたりしてました。でも大学内では気配を消していたというか、空手的なイメージを完全に消してましたね(笑)。

 

 

ーー大学ではどんな学生生活を送っていたんですか。

宮原 「芸能界で成功したら退学する」って覚悟を持って入ったので、そうなったら別れ難くなったりするので友達も作らないで、ひたすら勉強しようって考えてたんです。だから、みんなが「どこに入ろうかな」ってサークルを見て回ってるなか、全然1人で帰ってたし、最初の頃は友達もそんなにいなくて。

 だけど、友達がほんといい子ばっかりで。「芸能やってるんだよね」と話したら、休んだ期間のプリントを全部見せてくれたり、「テスト、ここ出るって言ってたよ」って教えてくれたりとか。メチャメチャ支えてくれて。

 

ーー2023年1月22日にアマチュア大会「RISE Nova」で、試合開始15秒でKO勝利。4月21日にプロとしてRISE本興行に出場し、試合開始39秒KO勝利。KOした瞬間は、どういった気持ちでしたか。

宮原 空手だと、KOさせると反則に当たるんで「あ、やっちゃった……」って感じで、反省まではいかないレベルでへこむんですけど、キックボクシングの場合は、相手が倒れたら「立たないで」と必死に願う感じですね。私、体力がないので、試合が続いちゃうと危ういかもしれないので。

 だから、アマチュアの大会でもプロの大会でも、ゴングが鳴った瞬間に「終わった~」っていう、ホッとするような嬉しさがやってきました。4月21日の試合は、練習がきつかったので、練習が終わるうれしさのほうが大きかったかもしれないです。

 

 

 

 

念願のラウンドガールとしてリングに立ち…

ーーそのプロ戦では、試合を終えた直後にラウンドガールも務めているんですよね。試合の結果がどうであれ、ラウンドガールとしても出ようと?

宮原 あまりにボコボコにされて失神なんてことになったらムリだろうけど、私の気持ち的には歩ける状態ならば何が何でも立ちたいなと。もう、目が腫れていようが、鼻血が出ていようが、立たせていただけるんだったら立ちたいという気持ちでしたね。

 あの日は、人生で5本の指に入るくらいうれしかった日で。ラウンドガールとしてリングに戻ったら、会場のみんなが拍手で迎えてくれて「華音、華音」って呼んでくれて、スターになった気分でラウンドしてました。テンションがヤバくなっちゃって、帰ってからSNSの返信とかすべてやったりして、次の日に仕事があったのに朝7時くらいまで起きてましたね。

 

 

「アクション女優といえば宮原華音だよね」ってぐらいになりたい

ーー2023年は『妖獣奇譚 ニンジャVSシャーク』や『仮面ライダーガッチャード』のクロトー役で、アクション俳優としての存在感を放っています。

宮原 「この身長で動けるのはすごいよ」と言っていただけることが多いので、もっともっとできる技も精度も上げていって「アクション女優といえば宮原華音だよね」ってぐらいになりたいですね。もちろん、アクションのないお芝居中心の作品も呼んでいただけるようにもなりたいです。

 4歳ぐらいの子供がいる友達がいて、その子供が『ガッチャ―ド』を見てる写真とか送ってくれてうれしいんですよ。あと、親戚の子供が小1と年中さんなんですけど「『ガッチャード』見てるよ」って写真が送られてきて「ありがとー」って喜んでたら「これが欲しいんだって」ってライダーベルトの写真が送られてきて(笑)。「そういうことか」って、クリスマスに買ってあげました。

撮影=三宅史郎/文藝春秋