名カメラマン樋口哲雄氏 2018.3.18 | 田舎暮らし|房総族・多娯作のブログ@いすみ市

名カメラマン樋口哲雄氏 2018.3.18

 日本国の重要文化財的な映画フィルムが 山梨県で発見された それが「TVやまなし」で放送され 

反響を呼んでいるそうだ・・・ 

 

 

 

当時のフィルムは 自然発火性で 燃えてしまったそうです それが 90年も経た今日まで残り しかもその

一部が ほぼ完全な状態で蘇ったことは 

奇跡的出来事らしいのです

 

当時の世情 雰囲気が長時間動画で残っているという事は ほとんどないそうで 歴史的に見ても日本の宝

 国宝級だという方もおられるのです・・・

 

 

発見されたフィルムは14巻 そのうち6巻は 再生再現が出来て 再現に関わった専門家の話によると 

「当時のフィルムがほぼ完全に蘇ったのは稀有なこと 

コントラストもグラデーションも かつてないほどの画質で 正に驚異的 カメラマンの操作技術も 関連技術も

とても高いレベルだった」 そうです 嬉しいですね

 

 

明治時代中ごろに生まれた 私の叔父さん 樋口哲雄氏が この動画を撮影したカメラマンで その御子息お二人は 私が義兄と慕っている方たち 親戚でして・・・

 

 

 

 

下は 今回復元されたフィルムタイトルの一部です

 

 

 

日本最古の地下鉄 銀座線の工事建設を長期に渡り

撮影したのも 樋口の叔父さんだったそうです

下は 本郷にある日活本社での試写会風景ですね

 

 

 

 

大正時代の叔父さん 樋口哲雄氏

 

 

大正天皇が崩御され 時代は昭和となって

皇室 宮家の写真もたくさん撮られていたようです

 

 

 

尾上松之介や 坂東妻三郎 丹下作善の大河内傳次郎 名前くらいは知っている無声映画時代の 銀幕スターたち 岡田嘉子はロシアへ渡ったのでしたね・・・

 

 

以下は 文化庁が記した2012年の 

公開記事の一部です・・・

明治の4大映画商社(吉澤商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂)の統合により,大正元(1912)年に「日本活動写真株式会社」(日活)が誕生してから,今年はちょうど100年目の年にあたります。

古くは向島撮影所の新派映画や・・・・

 

 

以下の写真は 昭和天皇が即位された大礼を祝し

東京上野で 「東京博覧会」が開催された昭和3年の記録映画ですが 他では見られない貴重な風俗 情景も映し出されていて とても興味深いものです

 

 

来日した三人の飛行士を 日本のボーイスカウト

少年たちが歓迎しているところです(下)

 

 

 

 

昭和3年の大博覧会では 東京市のよりぬきの

芸者衆が 接待役を務めたそうです

 コンパニオンの先駆けですね

 

 

 

 

日本国 自由資本主義社会の草創期に 多大な功労を尽くされた 渋沢栄一翁も ハッキリと映し出され 当然ながら 生き生きと動いているのです 感動です・・・ 

 

 

 

 

T型フォードや パッカードの名前は有名ですね

 私も知ってましたが 日本で最初に走った自動車は 

フランス製だったとか・・・それは 知りませんでしたね

 

 

 

 

 

 

当時 カメラマンと言えば 時代の最先端を走って

いたようで 「モダンボーイ」 だったのでしょうね

 

 

日本橋高島屋では マネキン人形が登場し その中には一人だけ 本物の女性が混じっていたそうで ほんの少しだけ動くマネキン人形を 捉えたフィルムもなかったようで これはまた 日本初の貴重な動画ですね・・・(下)

 

 

 

叔父さんは 「戦場カメラマン」の草分け的存在でも

あったようで 大陸各地を跳びまわっていたことでしょう

 

 

昭和12年の南京入城時 「日本軍による大虐殺があったと 中国は喧伝」してますが 毎年被害者数を増加させているプロパガンダでしょうネ

我が叔父さんは 中国政府が主張するような 大虐殺は目撃していないと 証言してます 戦時下ですから 当然非人道的なこともあったでしょうが 私も日本の

従軍記者や カメラマンの証言を 信じてますね

 

●読売新聞 技師 樋口哲雄氏の証言

「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」 

 

その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが? 

 

「どこで何があったのか知りません」 

 

見たり聞いたりしませんか?
 
「全然解りません だいいちそういう形跡を見たことがありません。
あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか 中山陵など荒らされていないし、きれいでした やらなきゃこっちがやられるからやったのを
虐殺といっているのだと思います。」

 

 

以下の3枚は 東京の母親宅に 勝也兄 正和兄が

来てくれた 去年(2017年)の5月のスナップですね

 

 

大正生まれの 私の母は95歳になります・・・ 

浅草時代 一緒に過ごした幼い日々のことを

とても 懐かしんでましたね

 

 

樋口の兄たちは 東京大空襲を受け 浅草で焼かれ 

岡山県に疎開し 私の母は小田原に疎開したとたと聞いてますね 勿論私に 記憶はありませんが 

たいへんな時代だったのですね

 

 

1926年と言えば 昭和元年です 驚きです

そんな時代に ハーレーで走り回っていた叔父さん

 

時がうつり 昭和の30年ころ 私が子供の頃 叔父さんたちは 東京四谷に住んでTVや 新聞の仕事をしていました 私も親に連れられ 何回か遊びに行ったことがありましたね はっきりとは 思い出せないのですが

 

 

こんな話も思い出しました 昭和の初め 大島の噴火山三原山で 自殺することが流行し 多い年には1000人くらいの若き青少年が 噴火口へ飛び込み自殺を図ったそうです 熱海の錦ヶ浦や 日本海の東尋坊も 自殺の名所になった時代が ありましたね・・・

当時 読売新聞のカメラマンだった樋口の叔父さんは ロープで吊ったゴンドラに乗って 噴火口の様子を撮影してきたそうです 

「自殺とは そんなにきれいごとなんかじゃないんだよ・・・」 そんなことを教えたかったのでしょうか?

 叔父さんの男気 勇気に感動です・・・

 

下はゴンドラのレプリカですが このような形だったようで 命がけですね

 

 

まだまだ 書き留めておきたい記事はいろいろあるのですが 今日はこのあたりで・・・

「TVやまなし」で放送された録画DVDは 今 友人に依頼して コピー製作中です 

 いずれにせよ 近世の歴史の一部分 多くの皆さんに知って戴ければ 親族のひとりとして 幸いに存じますね ご拝読ありがとうございました・・・