《プロローグ》
美咲は階段の方を振り返った。
すると、そこにはアニメから抜け出てきたような王子様が立っていた。背が高くて、髪は明るい栗色で色白のハンサムな王子様だった。
美咲は夢を見ているような感覚になった。
王子様は美咲を見て驚いたような表情をして少しの間戸惑ったように立っていたが、やがて美咲の方へ向かって歩いてきた。
王子様は明るい声で「こんにちは!」と言った。
美咲もつられて「こんにちは」と返した。
♡ ♡ ♡
美咲は家のそばのペンションの駐車場に車が止まっていないのを確認してから、「心の洗濯に行ってくるね」と家族に告げて、家の前の浜辺に下りて行った。
「命の洗濯」ではなく「心の洗濯」だ。
美咲が「心の洗濯に行く」と言った時は一人で浜辺でぼ~っとしたい時なんだとわかっていたので、家族の誰も邪魔しに行かないようにしていた。
美咲の家の前には小さな浜辺があり遠浅の海岸になっていた。遠浅なので船が近づいてくることもなかった。
浜辺は私有地ではないけれど、美咲の家の敷地からしか降りられないのでよその人が来ることもなくプライベートビーチ化していた。だから浜辺の掃除も美咲の家でやっていて、ごみ一つ落ちていなくて綺麗だった。
浜辺にはちょうど日陰になる所にベンチ代わりの太い丸太が置いてあって、美咲はいつもその丸太に腰掛けて海を眺めてぼ~っとするのが好きだった。
夏の間は日陰でもさすがに暑いので浜辺には行かなかった。
それに8月下旬にはプラスαという人気アイドルグループの人たちがペンションで一週間の休暇をとっていたので、浜辺には行かなかった。
彼らは海で泳いだり、砂浜で遊んだり、夜はバーベキューや花火をしたりして楽しんでいたので邪魔しないようにしていた。
だから彼らと顔を合わせたことがなかった。
プラスαがペンションで活動していることはよその人には内緒だったので、誰にも話さなかった。親友の洋子にさえ秘密にしていた。
美咲の家は周りに家が全然ない田舎にあった。裏手は広い牧場だった。
家から東にちょっと歩くと美咲の祖父母が経営していたペンションがあった。
祖母がもう80歳に近くなったから体力的にきついと言って、1年前にペンション経営をやめて空き家になっていたのだが、美咲の従兄の匠真から自分が所属するアイドルグループ、プラスαの練習や打ち合わせなどの活動拠点に使わせてほしいと頼まれてプラスαに貸していた。そのため、時々メンバーが練習や打ち合わせなどに来ていた。
匠真はここなら周りに民家がないから人目を気にせずに出入りできる。騒音も気にせずに楽器の練習もできると思ったのだ。
ペンションの駐車場に車が留まっていない時には誰も来ていないということなので、そういう日を見計らって美咲は浜に行くのだった。
9月の中旬でまだ少し暑いが日陰は涼しいので美咲は久しぶりに浜へ行った。絵を描くのが好きな美咲は昔はここで海の写生をよくしていたが、描きつくした感があってもう写生はしなかった。
昼食後、浜に行って丸太に腰掛けて鼻歌を歌いながら海を眺めていた。
なんかペンションの方から浜へ降りてくる足音が聞こえた気がして、美咲は階段の方を振り返った。
すると、階段の下にアニメから抜け出てきたような王子様が立っていた。白っぽいドレッシーなシャツと真っ白な細身のパンツ姿で、背が高くてスリムで、髪は明るい栗色、色白のハンサムな王子様だった。
美咲は夢を見ているような感覚になった。王子様は美咲を見て驚いたような表情をして少しの間戸惑ったように立っていたが、やがて美咲の方へ向かって歩いてきた。
王子様は明るい声で「こんにちは!」と言った。美咲もつられて「こんにちは」と返した。
そばまで来た王子様は驚くほど綺麗な顔をしていて、本当にアニメから抜け出て来たと思えるほど美しかった。
王子様は「誰かと待ち合わせ?」と聞いてきた。
「いいえ、一人で海を眺めているだけです」
「お邪魔だったかな」
「そんなことないですよ」
外見だけでなく声まで美咲の理想とする王子様ボイスで完璧な王子様だった。
美咲は心臓がバクバクするわ、王子様ボイスで心はメロメロでとろけそうになるわで息ができず、酸欠で頭がぼ~っとしてきた。
その日、一樹は楽器の練習と新曲の作詞のためにペンションに来た。事務所の練習室は使う人が多くてゆっくり練習ができないのでいつもペンションに来て練習していた。歌詞作りも寮の狭い部屋より景色のいいところの方がいい気がしていたし。
恋愛経験のない一樹は若い女の子向けの恋愛ソングの歌詞を書くのは大変なことで、なかなかできあがらず毎回とても苦労していた。だから少しは環境の良い所の方で考えた方がいいかなと思っていた。
駐車場へ車をとめて、ペンションへ入る前に海でも眺めてリフレッシュしようと思い浜へ降りた。階段を下りたところで、浜辺の隅の丸太に長い髪の女性がいるのに気づいた。まさか浜に若い女性がいるとは思いもよらなかった。
そして振り返った女性の顔を見て驚いた。なんとずっと会いたくてたまらなかった美咲だったのだ。夢かと思ったけれど美咲だった。美咲は大人の女性になっていて高校生の時よりもっと美しくなっていた。
美咲とは高校一年生の時以来、4年以上も会っていなかった。いつか会いに行こうと思っていたが、もっと有名になってからと考えていた。だからまだ会うには早過ぎると思い、引き返そうかなと思った。
でも、ここで奇跡的な再会をしたのは運命なのかもしれないと思って、意を決して歩き出した。
何度もペンションには来ていたが、美咲がこんな近くにいるとは知らなかった。
美咲の方へ向かって歩きながら自分の正体がばれるんじゃないかと心配でドキドキした。でも髪型も髪色も違うし、顔は大人びたしメイクもしているから美咲にはばれないだろうとも思った。
「美咲は若いアイドルの顔を見分けられないアイドル音痴で、顔を覚えられない」と姉ちゃんから聞いていたので大丈夫だろうと思った。
平静を装って、そばまで行って明るい声で「こんにちは!」と別人になりきって声をかけた。美咲が「こんにちは」と答えた時、気づかれていないと確信した。
一樹は声のトーンを少し落として大人びた低めの甘い声で「誰かと待ち合わせ?」と聞いた。
「いいえ、一人で海を眺めているだけです」と答えた美咲の目が潤んでいるように見えた。
「お邪魔だったかな」
「そんなことないですよ」
「橘一樹です。よろしく!」と言って一樹は手を差し出した。
美咲は慌てて立ち上がって一樹と握手をしながら「一ノ瀬美咲です。よろしく!」と言った。
美咲は一樹の左手首のブレスレットがチラっと視線に入った時「あれ?」っと思ったけれど、勢いよく立ち上がったせいで立ち眩みしたのと、一樹の王子様ボイスでメロメロになっていて体の力が抜けていたのとで、フラっとよろけて倒れそうになってしまった。そのため、それきりブレスレットのことは忘れてしまった。
一樹は美咲が倒れかけたので慌てて美咲を抱き寄せた。そのまま抱きしめてキスしたい衝動にかられたが、初対面でいきなりそんなことをしたら変質者だと思われると思って踏みとどまった。
一樹は美咲の心臓がドキドキしているのに気づいた。ふと左手首にブレスレットをしたままだと気づいてこっそり外してポケットにしまった。
大事な宝物のブレスレットなので普段は身につけないが、たまに歌詞を考える時にだけ身につけていた。
一樹は美咲を抱きかかえたまま丸太に腰を下ろすと、美咲に「大丈夫?」と聞いた。
美咲は息も絶え絶えのような感じで話した。
「さっき最初に見た時にアニメから抜け出てきた王子様だと思っちゃったの」
「それは嬉しいな~、僕たちプラスαはメルヘン世界のプリンスというコンセプトでやっているから」
「プラスαってペンションに来ている人たちね。だから王子様がいたのね。私、夢を見ているのかと思っちゃった」
美咲は恥ずかしそうに笑った。
「王子様が近づいてくるから心臓がバクバクしちゃった。それでね、王子様の声がなんと私の理想の王子様ボイスだったからもうメロメロになってとろけそうになってしまったの。ルックスも声も完璧な王子様だって思った時、体の力が抜けてフラっとしちゃって」
美咲は一樹に体を預けたまま声が上ずりそうになるのをこらえて説明した。
一樹の声を聴いているとメロメロしてしまって体に力が入らなくて、まだ倒れそうでシャンと座っていられそうにもなかった。
美咲は一樹に抱かれながら、ボディーソープとは別の一樹の体臭を感じ取って懐かしい気がしていた。心地いい安らげる匂いだった。何故かとても安心できた。
一樹は美咲が可愛いなと思った。外見だけ大人になって、心はまるで中学生の時から成長していないような気がした。自分のために中学生のままで美咲の時間が止まっている気がして神様に感謝した。そして大好きな美咲を抱きかかえている幸せを実感しつつ奇跡だと思っていた。
「王子様ボイスって何?」
「アニメの王子様の声のことよ」
「アニメ好きなの?」
「私、小さい頃から絵を描くのが好きで自分でもアニメ描いていたから、アニメが好きなの。特に異世界アニメが大好きなの」
「好きな声優さんはいるの?」
「素敵な声の声優はいっぱいいるけど、私の理想とする王子様ボイスにはまだ巡り合ってないの。あなたの声がずっと探していた理想の王子様ボイスだったの」
美咲が無邪気にしゃべっているのを聞いていて一樹は嬉しくなった。
「中学生の時は僕がどんなに偉そうにしても、大人ぶって背伸びしても美咲はお姉さんだったのに、今は僕の方がお兄さんで美咲が妹になっちゃったみたいだな」
一樹は美咲に聞いた。
「みさちゃんて呼んでいいかな、僕のことはカズって呼んで。プラスαではカズって呼ばれているんだ」
美咲は恥ずかしそうに「カズ君」と呼んだ。
美咲はふと思い出したように聞いた。
「プラスαって本名を明かさないんじゃなかった?私に名乗っちゃってよかったの?」
「お近づきになるのに本名名乗らなかったら失礼でしょ?」
「お近づきねえ」美咲は呟いた。
美咲は初対面の男性に抱きかかえられているのに、一樹には初対面とは思えないような不思議な親しみがあって、そのまま体をあずけていた。
体がまだ宙に浮いているような感じがあって心もとなかったので、よりかかっていないと倒れそうだったのだ。
初対面なのに安心感と安らぎを感じて心地よかった。ずっとこうしていたい気分だった。
「きっと王子様だからなのだ」と思った。
一樹が現実の人という感じがしなくて、アニメの王子様に抱きかかえられ、話をしている気がしていた。
現実世界の若い男性ではなく、異世界アニメの人という感じがしていた。そのため警戒心を全くもたなかった。
「みさちゃんはプラスαって知っているの?」
「妹がファンなの。だから近場のライブはデビューコンサートからずっと行っているのよ。私は見てても誰が誰だかわからないんだけどね。ほらずっと動き回っているでしょ?だから顔が覚えられないのよ。だから若いイケメンやアイドルグループの人たちはみんなひっくるめてイケメンとしか思えないの。妹は私が覚える気がないだけっていうんだけどね。興味ないから覚える必要ないし。うちでは祖父母や両親が昭和、平成の歌番組しか見ないから、私も昭和、平成の歌しかわからない。今どきの歌は妹がテレビの録画を見ている時に、横で勉強しながらチラっと見ているだけ」
「僕たちのライブ見に来てくれているなんて嬉しいなあ。他にはどんなグループのライブ見ているの?」
「プラスαだけよ。他のグループは応援していないの」
「それはもっと嬉しいなあ。じゃあみさちゃんは推しのアイドルとかいないの?」
「いないわよ。今どきのアイドル知らないもの。妹はタクの推しやっているけど」
美咲はタクが従兄の匠真だということは話さなかった。
一樹は「へ~、そうなんだ」と答えつつ、ちょっと残念なような、でもホッとしたような気がした。
「僕の推しだったら三角関係になっちゃうところだったから良かったかも」と思った。
「みさちゃん、知らない人にあんまりペラペラと自分の情報教えちゃだめだよ。いい人に見えて悪い人もいるからね」
一樹は忠告した。
すると美咲は聞いてきた。
「カズ君は悪い人なの?」
「僕は悪い人じゃないよ」
「悪い人じゃないってどうやって証明する?」
「僕はプラスαのメンバーだから悪いことしたら事務所やメンバーに迷惑かけちゃうことになるから悪いことはしないんだよ」
「じゃあプラスαのメンバーだっていう証拠は?」美咲は尚も聞いてきた。
一樹は慌ててポケットを探した。
「免許証じゃ証明できないし、証明できるもの何も持ってないな~」
困っていっている一樹に美咲は「大丈夫よ、ペンションに来ているのはプラスαの人だけだから」と言って笑った。
一樹は美咲に聞いた。
「みさちゃんは彼氏いるの?」これが一番聞きたかったことだった。
「いるわよ、遠距離恋愛で夏休みと冬休みと春休みの年に3回しか会えないけど」
一樹はがっかりしたけれど、いつか彼氏から美咲を奪い返してみせると心に誓った。
「それは残念、彼氏がいなかったら立候補しようと思ったのに。そりゃそうだよね、こんなに美人なんだから男がほっとかないよね」
「またまた冗談を。お世辞が上手なのね。私、男性からもてたこともないわよ」
美咲はよく人から美人だと言われたが、自分では美人だと思っていなかった。根がズボラなのでオシャレもしたことないし、飾ることが嫌いでいつも自然体だったので自分の外見を気にしたことがなかった。それに本当に男性からもてたこともなかった。
「冗談じゃないし、お世辞じゃないよ。本心だよ。みさちゃんがもてたことないなんて信じられないよ」
「アイドルの人はリップサービスが得意だものね」
「リップサービスじゃないよ」
「でも人気アイドルは交際なんてできないでしょ?ファンが大勢いるんだもの。ファンが恋人よね。私がもし仮にカズ君の恋人になったらファンに申し訳ないわ。ファンに恨まれちゃう」
「隠しておけばいいだけのことだよ。わからなきゃいいんだから」
「それじゃあファンを騙していることになるんじゃない?」
「騙すわけじゃないよ。隠しているだけだから。恋人はいませんとは言ってないから騙したことにはならない」
「それって屁理屈みたいな気もするけど」
「仕事とプライベートは別の人間。仕事ではメルヘン世界のプリンスの役を演じている。でも仕事を離れたら僕は普通の人間、恋も結婚も普通にする権利がある。
僕たちの仕事は仮想世界のようなもの、だからメルヘン世界のプリンスなんだ。アニメは2次元だけど、僕らは2.5次元と言われている。だから3次元のファンたちとは交われないんだ。ファンの人たちもそれを承知で応援してくれている。ファンは2.5次元の僕らを応援してくれているってわけ。
プライベートの僕たちは3次元の人間だから恋も結婚もするのは当たり前。ファンだってそれはわかっているはずだよ。ファンの人たちには彼氏や夫のいる人たちは沢山いる。ファンの人たちだけ恋人がいたり結婚していたりしてもよくて、僕たちはだめってことはないでしょ。
僕ら夢を届ける仕事をしている。プライベートを明かさなければ夢は届けられる。それだけのことさ。
芸能人だって人間だからうんこもするし交際もするし結婚もするよ。交際しちゃいけないって言われたら一生独身になっちゃうじゃん。そういう人もいるけど僕は普通に恋人作って結婚したいから」
「でも一般人と交際しないでしょ。芸能界には綺麗な女優さんや美人歌手がいっぱいいるんだもの」
「芸能人も仕事以外のプライベートの時は一般人だから一般人と交際している人も結婚している人もいっぱいいるよ。芸能人と付き合ってスキャンダルを起こすと事務所やメンバーに迷惑かけるから、スキャンダルにならないように芸能人とは交際しないことにしているんだ。事務所からも禁止されてる。スキャンダルは命取りだからね。だから僕たち、交際は一般人としかできないんだ。でもファンに手を出すのも禁止されている」
「そうなのね。でも、もし芸能人を好きになって交際しちゃたらどうするの?」
「そういう時は世間にバレないように交際するしかないね。スキャンダルになるといけないから」
「カズ君も秘密で交際している女性がいるんじゃないの?」
「僕はいないよ。絶対に芸能人とは交際しないって決めてるから」
「でも、芸能界で好きな女性が現れちゃったらどうするの?」
「そんなことは絶対にないから」
一樹は「美咲と結婚するんだからそういうことはあり得ない」と思っていたが、美咲にそれは言えなかった。
「どうしてそんなこと言えるの?」
「だって、みさちゃんに一目惚れしちゃったから。みさちゃんのような美人は芸能界でもそういないよ。みさちゃんなら美人女優にも引けを取らないよ。彼氏が羨ましいよ。彼氏と別れたら絶対に僕の恋人になってね。みさちゃんのような美人が恋人になってくれたら僕、凄く幸せだと思う。みさちゃんが彼氏と別れるの、ずっと待ってるから」
「会ったばかりの私のことなんてわからないでしょ?私がどんな人間かわからないでしょ?私なんかでいいの?」
一樹は「美咲のことは良く知ってるよ」って言いたかったけれど言えないのが歯痒かった。
「みさちゃんのような美人なら文句ないよ。こんなに美人なんだものいい人に決まっている」
「美人がいい人だとは限らないわよ。それに私、美人の定義はわからないけど、自分が美人だと思ったことないわ。美しいとか綺麗っていう基準て人それぞれ違うでしょ?私は老人のシミだらけ皺だらけの顔や手を美しいと感じる、価値観を感じる。一般的な美人に価値観を感じたことはないわ。内面の魅力の方が大事だと思ってる。勿論美しい物は美しいと思うし、美人だって言われて悪い気はしないし、それは褒め言葉だと思ってありがたく受け止めるけど、美人の基準はその時その時で違うと思ってる。美人だと得することは多いかもしれないけれど、美人が必ずしもいいこととは思わないわ」
一樹は美咲の謙虚さに感心した。自分がイケメンだと言われていい気になって、うぬぼれていたことを恥ずかしく思った。
「美咲は外見が美人ていうだけでなく、内面も美人なんだなあ」と益々惚れ直してしまった。
「やっぱり早く美咲を彼氏から奪い返したい」と思った。
でも、イケメンの自分に美人の美咲はお似合いだと思っていた。中学生の時に一目ぼれした気持ちは変わらなかった。自分の嫁だと今も思っていた。
一樹はスマホの時計を見て「もうこんな時間だ。行かなきゃ。みさちゃん大丈夫かな?まだフラフラしてる?」と聞いた。
「まだ少しフラフラしているけど、ここでもうしばらく海を眺めているから大丈夫よ。カズ君の王子様ボイスが聞こえなければメロメロにならないから、直ぐによくなるわ」
一樹は美咲のことをもっともっと知りたかった。美咲とずっと話していたかった。まだ話したりなかった。
でもペンションに来た目的を思い出し、名残惜しかったけれど今日は話を切り上げることにした。
「今日はペンションに泊るから、明日の午後、帰る前にまた会えるかな?」
「いいわよ。カズ君晩御飯とか朝御飯はどうするの?」
「一ノ瀬水産の宅配弁当を予約してあるんだ」
一ノ瀬水産は水産加工場の中でおまかせ日替わり弁当も作っていて、工場横の店舗で販売しているが、午前中に予約しておくと作りたての晩御飯と冷凍の朝御飯用の弁当を夕方配達してくれるのだ。市役所と一ノ瀬水産が協力して市内の高齢者世帯には見回りを兼ねて毎日配達していた。栄養バランスも考えて作っている弁当だ。
おまかせ日替わり弁当と朝御飯用のお弁当は、その日、漁で水揚げされ、大量にとれた魚や雑魚などを使って安価に作っていた。栄養があって安くて美味しいと評判だった。
朝御飯用の弁当は加工場で瞬間冷凍されて、希望者には晩御飯用の弁当と一緒に宅配された。翌朝電子レンジで解凍すれば美味しく食べられる。
安価に提供するため、弁当の種類は毎日1種類のみなのでおまかせ弁当となっていた。
美咲は明日も会えると思うと嬉しかった。このまま一樹と別れたくなかった。ずっと話していたかった。
「明日のお昼ご飯はどうするの?」
「どっかへ買いに行こうと思っているけど」
「じゃあ私がお弁当作ってきてあげる。12時半でいい?私、料理が得意じゃないから簡単なものしか作れないけど」
「みさちゃん、家はこの近くなの?」
「そこの家よ」
「ペンションの隣に住んでいるんだね」
一樹は心の中で喜んだ。
「これからはしゅっちゅう会えるんだ。こんなにすぐそばにいたのに、これまで全然気づかなかったんだ」
ペンションへ行くと美咲に会えた喜びを早速歌詞にした。これまで歌詞作りには苦労していたが、美咲に出会ったおかげで言葉が次々に沸いて出てきて苦労することがなかった。