今の自分を造っているのは、過去の自分の経験。
言い換えるなら、過去の経験から得た何らかの気付き。
小さい頃、『私は何で生まれてきたのだろう』と思っていた。
それは、大人に近づくまで自分の中の疑問としてあった。
嫌な事が起きる度に、そう思った。
でも、答えは見つからなかった。
楽しい時は、『私は何で生まれてきたのだろう』とは思わない。
辛さや悲しみが、自分のキャパを超えてしまった時に、そう思ってしまうのかもしれない。
大人に近づいてきた時、その答えは『魂を磨く為』なんだと聞いた。
その答えが正解か不正解かはわからないまま、『そういうものなんだ』と思った。
そう思ったのは、『魂を磨く為に生まれてきた』ということに少し納得した自分がいたからかもしれない。
あるいは、そう思わないとやってらんないと思ったからかもしれない。
全部自分で設定して生まれてきていると言われている。
ならば、もう少し、葛藤のない人生を設定しても良かっただろうに。
それでは、魂が磨かれないのだろうか。
自分が望む輝きというものは、そこまでの設定をしないと光放たれないのだろうか。
私の中に、『人生は修行』という概念があるのも確かではある。
だから、『厳しさ』は嫌いではない。
それが歪んだ厳しさでなければ。
歪んだ厳しさでなければ、厳しさの中に優しさがあるのは確かかもしれない。
この世界は光と闇が相対関係に存在している。
光しかない世界では、ネガティブは経験出来ない。
言い換えるなら、『楽しい』『嬉しい』などのポジティブと言われるものは、ネガティブなものがあるから味わえるものである。
ネガティブがわからなければ、ポジティブも色褪せてしまう。
ポジティブもネガティブもただ在る。
光と闇もただ在る。
自分の中にただ在る、それだけのことではないだろうか。
それを経験したかったのだろう。
なんか、私の口調じゃない
よくわからないけど、書きたくなった?
(笑)
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