決して忘れてはいけない日 | ・:*:・ ☆Happiness☆・:*:・

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アラシゴト
アイバゴト
ワタシゴト
アラ画部ゴト
などなど
書いてます。


   


   あれから2年。


   2年前の今日 あの時間 おかしな揺れに すぐテレビをつけた


   震源地が実家のある宮城沖


   私はすぐに 母親に電話した。 ゆれの直後だったので

 

   電話はすぐに 繋がり 安否の確認がとれた


   そして 実家に電話 実家みな大丈夫とのことだった。


   しかし 兄と親戚、友達に連絡がつなかないということだったので

   (あっちは もう 電話が一切通じない状況だった。)


   何度も何度も 再ダイヤルしながら 兄と親戚と友達に連絡し


   安否確認ができ 幸いみな無事だということだった。


   ほっと する間もなく 津波が押し寄せてた


   上空から 自衛隊のヘリで 撮影する光景が


   まるで 映画でも見てるような


   信じられない光景が目にはいってきた。 地獄絵図のよう。


   ずっと 目にしてたふるさとの風景が 一瞬にして津波に奪われた。


   実家は 海まで5分という場所にある。 しかし高台だったため


   津波からは免れた。


   しかし 海沿いにある家や建物はすべて 津波に飲み込まれ


   去年8月に震災後はじめて見たふるさとの光景は


   まるで はじめて来たかというくらい なにも残ってはいなかった。






   

   震災日の夜


   近くの火力発電所やら石油コンビナートが燃えて 

  

   外は 不気味に明るく そして 石油臭かったらしい。


   次の日には


   この火災による 非難勧告が出て


   家族は 義理姉の実家に避難した。


   

   実家の生活のライフラインや復興したのは

  

   震災日から 2、3週間後だったろうか。



   しかし 報道等でみてはいたが 家族や友達から聞く


   生の声で聞く 悲惨な状況は 耳をふさぎたくなるくらいだった。


   そして 無事だった人 みんな口をそろえて言う言葉が


   「紙一重」


   そして 


   「津波がなければ こんな被害は出ていなかった。」 


   だった。


   



   友達が言ってた言葉が 耳から離れない。


   「普通ってなに?普通の生活ってなに?」


   「生きてるから 頑張らないといけない。」


   「子供達の為に 不安な姿は見せられない。」





   復興してるとは言え 本当にまだまだだ。


   復興したなと思って ぱっとみて分るのは


   ただ瓦礫がなくなっただけ


   なくなったというか 瓦礫はまだまだ 山になって瓦礫置き場に


   何箇所にもなってある。




   でも 復興は 建物や瓦礫や原発も問題だけじゃない。


   被災者の心 メンタルもまだまだ ケアをしていかなければいけないと


   思う。



   そして 今一度 自分になにが出来るか 考えてみてほしい。


   






   頑張っぺ(頑張ろう)!東北! 


 まげんな!(負けるな) 東北!