逃げてもいい、と思う。
大半の人はそれを挫折と呼ぶのかもしれない。
人には向き/不向きがあるし、
努力も大切だし、運やタイミングもあると思う。
自分の属する世界が全てではないけれど、
そのなかにいると、息苦しかったり辛かったりしたら、
逃げてもいい、と思う。
逃げることは、大人の特権だ
子どもの頃は、なかなか難しい。
経済的に自立をしていない子どもは、学校や家庭が
人生の大半を占めるから、その世界がイヤだった場合に
逃げ出すのは難しい。理解されない・認められない世界ほど
苦しい場所はない。
子ども時代なんて、トータルで見たときには、
ほんの数年間、その期間の挫折や苦痛(本人にとっての)
は、小さいものだけれど、なかなかそうは考えれない。
トータルで満足できれば、些細なことは無視してよい。
敵を作ってもいいじゃん、二度と会わない世界に逃げれば。
憎まれてもいいじゃん、殺されるほどでなければ。
・・・なーんてことを学校では教えてくれない
さて、このような思考回路が形成される感じに
弱っている自分が、本屋で吸い寄せられるように手に取ったのは、
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弱っているときの心象風景は、きっと、砂漠だ。
一面に広がる景色は、360度、どこを見渡しても
切り取っても、同じに見える。
どこへ向かえばオアシスがあるのか、先行きが見えない。
唯一、しっかりと踏みしめている大地も、身をかがめて
すくいあげる砂は、さらさらと手のひらから零れ落ちていく。
この本は、昭和55年発行。
書かれた年代は、さらに数年前に遡るが、
今年、映画化され、2月27日から劇場で公開されるそうだ。
本の帯には、
「このかにた村では能率という言葉を聞かなかった。
ここは、時間に強いられながら労働をしない、
おそらく日本でも数少ない場所のひとつに違いなかった。
ある意味で『能率』こそかにたの敵だった。
なぜなら『シャバ』が能率至上主義であるからこそ、
ここの女たちは弾き飛ばされてしまったのだ」
と書かれている。
「かにた婦人の村」の一説だ。
弱っているココロには、これらの言葉が響かない。
なぜなら、自分の位置づけは中途半端であり、
この本に登場する人物ほど、強烈な何かを持っていない。
平たく言えば、施設に入るほどの状態でもないし、
かといって、社会に完全適応できる状態でもない、
とても中途半端な立ち位置なのだ。
なんとかサラリーマン生活をこなせる。
けれど、しっくりこない。
なんとか社会と折り合いをつけようと努力する。
だけど、うまくゆかない。
それでも生きてゆかなきゃいけない。
生まれてしまったから