旅をするのは、人の親切にすがっていく部分があるけど、
疲労困憊してくると、人の親切がうまく受けられrなく
なってくるんですね、わずらわしくて。
たとえば、バスでタバコをすすめられたり、食堂で
会った人が食べ物を半分分けてくれる。
ところが、だんだん肉体的な疲労がたまってくると、
人を拒絶するようになって、その果てに、人に対しても
自分に対しても無関心になって、どうでもいいじゃないか、
たとえ死んでもかまわないじゃないか、と思うようになってしまう。
自分に無関心というと超越的な何かをイメージするかもしれない
けれど、そうじゃなくて、
単純に肉体的な疲労なんですね。
死んでもいい、生きる必要なんかないんじゃないか、と
思っていても、疲労が癒されると、やはりバスで前へ進もう、となる。
沢木耕太郎さんの著書「深夜特急3-インド・ネパール」
の最後、此経さんとの対談のなかで沢木さんが話した言葉。
- ¥420
- Amazon.co.jp
自分の体力が尋常ではないほど少ないことを知っている
私は、睡眠時間確保が日常生活のなかで大きな役割を果たしている。
そんななか、うっかり忙しい職場に入ってしまった
1日24時間のうち、職場への滞在時間12~15時間。。。
プラス、通勤時間が往復2時間。
この生活を3日間続けただけで、私は限界に達してしまう
人よりブレーキがかかるのが、早いのだ。
だから、表面上は、「文句ばっかり言って(現実的には言ってないけど)、
与えられた仕事をこなさない人」に見えるんだろうなぁ。
もっと頑張れるはず、他の人はできることだ、と思われる。
フツーの人(?)というのか、一般的な人は、もっと限界値が高いから、
徹夜で仕事したり、土日フル出勤したりしている。
ソレと比較すると、明らかに私は、早い段階で音をあげているように
映るのだろう。
自分自身にとっては、限界で、疲労困憊して、人を拒絶して、
何に対しても無関心。無関心でありながら、ストレスだけは感じる。
往復の通勤ラッシュ電車では、現実逃避のため、読書三昧。
まあ、大半が睡魔に襲われ挫折するのだけれど
ついには、「自殺倶楽部」とかがあって、
すみやかに安楽死をさせてくれ、かつ、身辺整理をしてくれ、
誰にも迷惑をかけず潔く美しく、この世界から抹消してくれる
合法的な機関が存在すれば、駆け込むのに、と、
始発電車の閑散とした駅構内で、思ったりする。
このエスカレーターは、ホームへと続くのだけれど、
ここを降りたら、自殺倶楽部の入口だったらいいのに。。。
前兆は、あった。
仕事でも日常生活でも、記憶喪失になり、些細なミスが目立つ。
でも、疲れていて、もはや何でもどーでもよくて、全てに無関心。
ミスを怒られても、蔑まれても、どーでもいい。とにかく、この生活に
終止符を打ちたい。
怒りも恐れも嬉しさも楽しさもなく、淡々としてしまう。