女優の久我美子さんが、今月9日、誤嚥性肺炎の為、亡くなった。93歳。
私は、久我さんが出演した映画では、「酔いどれ天使」「また逢う日まで」「白痴」「怪談」などを見た事があった。
久我さんは、平安時代・前期(10世紀)から続く、公家(村上源氏)の出身であった。
久我さんの実家(久我家)は、戦前、華族であった。
ところが、戦後、華族制度が廃止されると、家計は逼迫。
実家を助ける為、久我さんは女優になったという。
久我さんの訃報で、思い出した話がある。
室町時代に書かれた「義経記」には、久我大臣の娘が、登場する。
この女性は、源義経の北の方(正室、妻)となった。
そして、義経と一緒に、奥州の平泉で、亡くなったという。
ところが、義経が活躍していた時代、久我大臣の娘は、実在していなかったらしい。
なのに、なぜ、「義経記」では、義経の妻として登場するのか?
それは、こういう裏事情があったからだ、という。
室町時代、貴族の久我家(久我美子さんのご先祖)は、琵琶法師のパトロンをしていた。
琵琶法師達は、(いつもお世話になっている久我様に、何かお礼がしたいな)と考えた。
それで、「義経記」に、義経の妻として、久我大臣の娘を登場させた。
そして、琵琶法師達は諸国をまわっては、「義経記」を庶民に聞かせた。
「義経記」では、義経と久我大臣の娘の最期も語られ、庶民の胸に響いた。
・・・というのは、ある歴史学者が唱える説である。
室町時代も、源義経の人気は、高かった。
彼の話に、「久我大臣の娘」と入れたら、(久我様がお喜びになるだろう)と琵琶法師が、久我家にごまをすった。
「だから架空の久我大臣の娘が、なぜか、義経の妻になってしまった」と、その歴史学者は言うのだ。
昔は、「義経記」を熱心に読み、久我大臣の娘は実在の人物で、義経と共に平泉で悲劇的な最期を迎えた、と信じ込んで涙した日本人が多くいたはずだ。
歴史というのは、しばしば嘘、創作が混じる事がある。
その為、どこまでが真実なのか、はっきりしないところがある。
●画像は、源義経の肖像画