![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190619/10/mirakuru460/60/3a/j/o0862122414472352014.jpg?caw=800)
勝田銀次郎は、1873年、愛媛県松山市に生まれた。
彼は東京英和学校を卒業した後、勝田商会という貿易会社を創業した。
この時、勝田はまだ27歳の若さであった。
この後、ロシアでは「ロシア革命」が起きた。
ロシア第二の都市サンプトペテルブルグは、革命の為に荒廃した。
治安は悪化し、食料の確保も難しくなった。
親達は、自分の子供をウラル地方に避難させた。
その子供の数は、800人にも達した。
800人の子供が疎開したウラル地方だが、ここにもロシア革命の戦火が及んだ。
その為、子供達は難民化した。
アメリカの赤十字社は、800人の子供達を、ひとまず極東のウラジオストックに避難させた。
そして赤十字社は、多くの国の船舶会社に、
「ウラジオストックも危険になるかもしれないから、800人のロシアの子供達を、ヨーロッパまで運んでくれないでしょうか」
と要請した。
だが、引き受けてくれる船舶会社はなかった。
困り果てた赤十字社は、ダメ元で、勝田商会に頼んでみた。
人を助ける事が好きだった勝田銀次郎であったが、この要請には、苦悩した。
十数年前に、日本とロシアは、日露戦争をしたばかりだ。
そこへもってきて、日本は資本主義、ロシアは社会主義と、国の体制も異なる。
ちょうど日本人のロシアへ対する風当たりが強い頃であり、ロシアの子供を助ける事は、躊躇せざるをえなかった。
ロシア人の子供を助けたら、国民から強い反発を食らい、勝田商会に仕事の依頼が来なくなるかもしれない。
ならば、勝田商会は倒産し、自分も家族も路頭に迷う事になるかもしれぬ・・・。
迷ったが、勝田はやはり博愛の人であり、結局ロシア人の子供達を助ける事にした。
勝田商会は、貨物を運搬する海運会社だったので、旅客船は保有していなかった。
そこで、保有していた貨物船「陽明丸」を改造し旅客船にした。
改造の費用は、現在に換算すれば数千万円ぐらいだったが、勝田が私財を投じて、補った。
1920年7月、旅客船に改造された「陽明丸」は、神戸港を出てウラジオストックに、到着した。
ここでロシア人の子供800人を乗せ、フィンランドへ向け出発。
途中、北海道の室蘭市に寄り、日本人の子供達に温かく迎えられつつ、約3か月後にフィンランドに着いた。
この後すぐ800人の子供は、サンクトぺテルブルグにいる親の元へ帰り着いた。
ロシア人の子供を助けた勝田銀次郎の善行は、約90年も人々から忘れ去られていた。
2009年、金沢市在住の篆刻家・書家の北室南苑氏が、ロシアのサンプトペテルブルグの図書館を訪れた。
この時、北室氏は偶然知り合ったオルガ・モルキナさんというロシア人の女性から、
「祖母、祖父から勝田銀次郎さんに助けていただいた話を聞かされました」
と話しかけられた。
「勝田さんと、当時の陽明丸の船長のお墓を探しています」
と言うオルガさんに、北室氏は一肌脱いだ。
北室氏は日本に帰国すると、勝田と船長だった芽原基晴の墓を探した。
すると、見つけ出す事ができた。
2011年、オルガさんは来日すると、2人の墓に献花した。
この出来事により、勝田銀次郎の善行は再び多くの人に知られるようになった。
勝田銀次郎は、1952年に亡くなっていた。
彼は生前、衆議院議員や神戸市長も務めていた。
しかし、ロシア人の子供達を救出した事は、選挙の際に一切言わなかったようだ。つまり、
「私は、かってロシア人の子供を助けた事があります。役に立つ男だから、投票してください!」
なんて事は、一言も言わなかったみたいだ。
この事からしても、彼は偽善者、売名家の類いではなく、真からのヒューマニストだったとわかる。
多くのユダヤ人の命を救ったドイツ人オスカー・シンドラーは、名作映画「シンドラーのリスト」の主人公として、世界的に有名になった。
勝田銀次郎も、シンドラーと同じぐらい世界的に知られていい人物だと思われる。
なんて言うと、天国にいる彼は、
「自分が好きでした事だし、そんなに騒がないでくださいよ」
なんて、謙遜するのかもしれないが。