皆さん、まずは、上の画像をご覧いただきたい。
これは、徳川家康の肖像画である。
徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、豊臣家を滅ぼした。
その翌年、駿府城(静岡県静岡市)で、亡くなった。
死因は、鯛の天ぷらにあたった為、とも伝わる。
その後、本人の遺志により、遺体は一旦久能山(静岡県)に埋葬された。
だが、1617年、日光東照宮(栃木県)に改葬された。
これは、国民が歴史の教科書で習う家康の最期の話である。
大阪府堺市にある南宗寺の徳川家康の墓
ところが、なぜか大阪府堺市の南宗寺にも、家康の墓があるのだ。
南宗寺にある家康の墓というのは、とても質素である。
東照宮の立派な墓とは、大違いだ。
しかし、なんでまたこんな所にも、家康の墓があるのか?
この寺の言い伝えによると、こうだ。
真田信繁の肖像画
大阪夏の陣の時、徳川家康の軍勢は真田信繁の部隊の猛攻撃を受けた。
「日本一の兵(つわもの)」と謳われた真田信繁率いる真田軍の突撃はすさまじく、家康は、軍を支えきれなくなった。
家康は、とうとう逃げ出した。
後藤又兵衛の肖像画
その時だ。
黒田官兵衛にも仕えた事があった豊臣方の猛将・後藤又兵衛に、ばったり出くわしたのが家康の運の尽き。
「後藤又兵衛 槍で稼いで5万石」
と謳われるぐらい槍の名手だった後藤又兵衛に、槍で体を突かれてしまった。
それでなんと家康は、絶命したのだという。
家康の亡骸は、家臣達により取りあえず南宗寺に、埋葬された。
その後、息子の徳川秀忠は影武者に家康のふりをさせ、急場をしのぎ豊臣家を滅ぼした。
影武者は、家康に容貌がよく似ていた従弟だという説がある。
影武者は、その後1年だけ家康のふりをした。
そして世の中が安定すると、駿府城で家康は病死した事にしたらしい。
南宗寺に埋葬された家康の亡骸は、大阪夏の陣からずいぶんたってから日光東照宮へ移されたという。
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なんとも、眉唾臭い話ではある。
しかし、大阪夏の陣で焼失したこの寺を、沢庵和尚が再建した後、家康の息子の秀忠、孫の家光が、参詣しているのが気にかかる。
徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光は、なんで江戸からわざわざ大阪堺にあるこの寺まで、参詣に来る必要があったのか?
よくよく考えれば、おかしな話である。
そもそも徳川家は、堺とは濃い縁はなかったはずだ。
家康が戦死し、取りあえずここに埋葬された、という話は本当なのかもしれない。
日光東照宮にある徳川家康所用の駕籠。
それに、日光東照宮には、家康が乗っていた駕籠(かご)が展示されているのだが、屋根に丸い穴が開いているのだ。
これは、後藤又兵衛が、槍で突いた跡なのかもしれない。
現在、NHKでは大河ドラマ「真田丸」を放送中。
このドラマの主人公は、真田信繁だ。
この歴史ドラマでは、大阪夏の陣で奮戦するも、とうとう家康を討ち取れず、落胆しながら、真田信繁は死んでゆく・・・というありがちな結末になるはずだ。
しかし、南宗寺の言い伝えが本当なら、
(とうとう家康を、仕留めたぞ!)
と信繁は、満足感を感じつつ死んでいったのかもしれない。