指名手配写真制度を作った江藤新平。その皮肉な結末。 | 話のコレクション

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 指名手配写真の制度を、日本で初めて作ったのは、江藤新平であった。
 彼は、明治時代に司法卿を務め、国家の近代化に尽力した。
 
 なかなかの傑物であった。
 
 江藤新平は、大河ドラマの主役になってもおかしくない人物である。
 
 彼が作った指名手配写真制度は、国家の近代化に貢献した。
 
 そんな彼だが、とても皮肉な結末が待っていた。
 
 1873年、征韓論を巡り、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らの対外強硬派と、大久保利通、岩倉具視らの内政優先派が、対立した。
 
 対立したものの敗れた西郷隆盛、江藤新平らは、失脚した。
 
 やがて、出身地の佐賀県へ戻った江藤新平は、反乱を起こすが、新政府軍に鎮圧され、逃亡した。
 
 この時、江藤新平の指名手配写真が、配られた。
 
 そう、彼は、全国に指名手配写真が配布された犯人第1号となってしまったのである。
 
 その後、彼は捕えられ、打ち首になり、この世から消えた・・・。