日航ジャンボ機墜落事故を、奇跡的に逃れた明石家さんま | 話のコレクション

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 1985年8月12日。
 
 この日は、世界の航空機史上に残る大事故が起きた。
 羽田空港を発って、大阪へ向かった日本航空のボーイング747SR機(123便)が、後部圧力隔壁の破壊により、コントロール不能に陥った。
 
 相模湾上空から、羽田へ引きかえそうとしたが、とても無理で、ダッチロールを繰り返した上に、コースを大きくはずれた。
 
 揚げ句、群馬県上野村にある御巣鷹山の尾根に墜落。
 乗員、乗客524名のうち520名が死亡という大参事となった。
 
 この記事の画像は、その123便だ。
 円内を見ると、本来あるはずの垂直尾翼がない事がわかる。
 機体が壊れて、取れてしまったのだ。
 この状態で、飛行する姿は、あまりにも悲惨である。
 
 さて、本題に入ろう。
 
 この墜落機123便には、実は、超人気芸能人明石家さんまも、搭乗予定であった。
 
 彼は当時、東京から大阪への移動に、この123便をしょっちゅう使っていた。
 
 ところが、事故が起きた日に限って、彼が出演していたテレビ番組「オレたちひょうきん族」の収録が中止になった為1本早い便で大阪へ向かった。
 
 これが、「運命の別れ道」となった。
 
 もしも、この番組の収録がいつも通り行われていた場合は、彼は123便に乗り、航空機事故で死亡していたろう。
 
 彼はこの事故のあと、数えきれないぐらいテレビ番組に出ている。
 現在だって、彼のレギュラー番組が放送されている。
 
 もし、あそこで亡くなっていると、日本のテレビの歴史も大きく変わったろう。
 例えば、彼が司会を務めた多くの番組はなくなり、それぞれ違う番組になっていたはずだ。
 そうすると、出演者、スタッフもそれぞれ違ってくる。
 多くの人の人生が、変わってしまったはずだ。
 
 彼は日航機ジャンボ機墜落事故が起きてすぐ、ラジオのレギュラー番組に出て、こう語ったという。
 「体がずっとふるえています。もしかしたら、私も死ぬところだったかもしれない」
 
 また彼は、事故後ショックで、しばらく仕事には集中できなかったという。
 それから、北海道、沖縄をのぞく、国内の移動には、飛行機を避けるようになった。
 スケジュールがおしていても、新幹線を利用しているという。