【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

≪私なり解説≫

○ここでは、この第13条のいわゆる「幸福追求権」から導き出される新しい人権について書きます。新しい人権として最高裁判所が正面から認めたものは、「プライバシー権」ぐらい(芦部信喜「憲法」新版より)だと言われていました。ただ現在は「人格(自己)決定権」が平成12年2月29日第三小法廷判決により認められたと評価することができます。また、最高裁ではありませんが、「平和的生存権」が、『自衛隊イラク派兵違憲』(平成20年名古屋高裁判決(及び平成19年名古屋地裁))訴訟で認められています。そのほか有力と考えられるのは「環境権」だと、私は思います。「環境権」が認められるべきだと考えるのは、自然と共に生きていない人間は一人もいないからです。自然環境、地球環境があってこそ、私たちの生活は成り立っています。

○それでは「プライバシー権」はどのようにして認められたのでしょうか。それは昭和44年最高裁大法廷判決の『京都府学連事件』(デモ行進の際に、警察官が犯罪捜査のために行った写真撮影の適法性が争われた事件)訴訟で、「個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する。警察官が正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法十三条の趣旨に反し、許されない。」として、最高裁でプライバシー権(の内の肖像権)が認められています。

○また、「人格(自己)決定権」が認められたと評価できるのは、平成12年最高裁小法廷判決の『エホバの証人輸血拒否事件』(宗教上の理由で輸血を拒否していた信者に対して手術の際に無断で輸血を病院が行った事件)訴訟で、最高裁は「「輸血を伴う医療行為を拒否する」という意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。」と判示し、人格(自己)決定権について肯定的に評価しています。

※この事件は、原告及びその家族の「いかなる場合にも輸血は拒否する」という固い意思を担当医師らは知っていながら、「手術の経過によっては輸血が必要になる場合がある。」ということを告げていなかったという説明懈怠(かいたい)がまずあり、「信仰の自由」「尊厳死」に密接に関わる事例で種々の評価がなされています。

〔補足〕人格(自己)決定権とは?

「人格(自己)決定権」とは、『個人の人格的生存にかかわる私的事項を、公権力等の介入・干渉なしに各自が自律的に決定できる自由及び権利』(芦部「憲法」参考)のことであって、要するに『自分のことを自分で決めれる権利』ということです。具体的には、例えば「髪形、服装、ライフスタイルを決める自由」や「医療行為の可否を決める権利」などです。これらは「プライバシー権」が『個人情報を自分で管理する権利(他者に使わせない権利)』であることから、「人格(自己)決定権」は「プライバシー権」の拡張と捉えることもできます。

○最後に、「新しい人権」と他の人権が対立する場合を例示しておきます。「プライバシー権」と、表現の自由から導き出される「報道の自由」の対立が挙げられます。最近では、死亡事件(事故)などにおいて被害者のお名前・年齢等個人情報が公表されない場合がかなり見受けられます。