前回は『夢も目標もない学生時代から美容の道へ』進んだきっかけについて書きました。
いよいよ美容業のスタート
化粧品会社の本社のいい香り、化粧品をこんなに使っていいの??って疑いたくなるぐらい
大量の化粧品に触れる研修の日々
皮膚の構造やスキンケア、ボディケア、メイク、接客について、学ぶこと何もかもが新鮮で、楽しい時間でした。
ただ一つ苦戦したことと言えば、フランスのブランドだったので、名前がとにかく難しかったこと。覚えるのに苦労しました。
毎日新しい化粧品を持って帰っては実際に試す。
20歳に肌に、贅沢なぐらい高級な化粧品をたくさん使っていました。
2週間の研修が終わり、いざ店頭に出た時、嬉しさよりも緊張の方が多かったですね。
今でも最初に販売した商品と接客を忘れられません。
初めてのお客様はリップを買いに来た方。50番のブラウン系の色。
震える手を何とか抑えながらリップを塗ってあげました。
濃い目のブラウンの色は、難しかったですね。
接客の楽しさも大変なことも、本当に様々経験しました。
上手くいかず、叱られ、悔しくて、駅のトイレで泣いたこともありました。
お客様へ上手く説明ができずに、『もっと詳しい方に変わってちょうだい!! 』と言われたことも、
商品を間違えてお渡ししてしまってお客様のお宅にお詫びに伺ったことも
接客態度にお叱りを頂いたこともありました。
たくさんの経験から本当に成長できた時期でした。
そんな美容部員も3年半が過ぎようとしたあたりから、販売のためにメイクをすることに違和感を感じ初め、メイクで女性をキレイにしたいという思いが強くなりました。
そこで丸4年勤めたの化粧品会社を退職し、1からメイクを学ぶことに決めました。
24歳の時です。
ありがたいことに、在学中も夕方からアルバイトで、同じ化粧品会社で美容部員を続けるとができました。
専門学校のクラスメイトは18歳ばかり。
美容部員経験者の24歳なんて、もちろんいません。
いろんな意味で温度差を感じていました。
ただ、この1年間は修行だと言い聞かせ通いました。
授業は楽しかったですね。興味がある事しかない。
メイクが目的で入ったのに、その中でもヘアアレンジがとても楽しくて、
担任の先生から『メイクさんは髪もできないと仕事が少ないよ』と言われたことで
3年間の通信教育で美容師免許を取る決断をしました。
その後1年間のヘアメイクの勉強を終え、ヘアメイク専門サロンに入社しました。
ヘアメイクサロンは主に、結婚式の参列や、パーティー用のヘアやメイクを短時間で、リーズナブルな価格で提供するサロンで、当時はまだまだ珍しい業態でした。
ヘアアレンジは1人15分から20分で仕上げるので、繁忙日だと、朝8時から夜の9時まで
40名近く施術する日もありました。
毎日終電、練習の日々。
逆毛を3時間ずーーっと練習する日もありました。
当時設立4年の若い会社だったので、
頑張れば頑張るだけ、評価をしてもらえました。
そして入社3カ月で店長に、その3カ月後には都内2店舗のエリアマネージャーを任されました。
技術の練習とマネージャーとしての業務。通信の美容学校。
本当に当時は激務でした。
ただ、好きなこと、目標がある、やりがいがある、激務の中にも充実感がありました。
美容師国家試験
そして美容師の国家試験に向けたラストスパートの時期に入りました。
相変わらず終電、激務の日々。
週に1回のスクーリングの日は休日をもらうか、半休で学校→仕事→終電で帰宅。
休みが休みじゃない状態。そんな生活でした。
国家試験が近くなったら、毎日夜中まで練習。
この時期が人生で一番頑張ってたんじゃないかなって、今でも思います。
実技試験は細かな失敗はあったものの、何とかできました。
約一カ月後は筆記試験です。
相変わらずの仕事の忙しさ、勉強する時間は帰ってきてからの夜中の数時間。
前日も夜中まで勉強していました。
そうそう、美容師の国家試験って、物理や人体について、法律の事なんかもあるんですよ。
そして、試験当日。
私はやらかしてしまったのです。
寝坊です・・・
人生後にも先にも、こんな大事な日の寝坊はこの日だけです。
学校の集合時間には遅れたものの、試験には何とか間に合うことができ事なきを得ましたが、今考えても、どうして起きられなかったのか不思議です。
それから約一カ月後、試験結果発表。
無事合格です。
あの、激務と勉強の日々から解放される喜びが大きかったですね。
心の底からほっとしました。
美容師免許無事取得し、仕事では名古屋への転勤が決まりました。
名古屋に転勤
入社して3年が経ったころ、本社(名古屋)に転勤になりました。
名古屋では、スクールの立ち上げと、教育部ヘアメイクマネージャーとして当時全国に150名ほどいるアーティストの技術研修と、新人教育の仕事を任されました。
スクール立ち上げという新しいことを1から作る事と、そしてアーティストの技術教育で教えることの楽しさを感じ、とても充実していました。
ヘアメイクさんから営業に
しかし、そんな充実した時間も長く続かず、名古屋に転勤になり半年で西日本エリア(名古屋・京都・大阪・福岡)の営業マネージャーを任されることになります。
まず最初の仕事は、ジェイアール京都伊勢丹の新店舗の立ち上げ。
保健所の登録や、店舗の電話番号の設定から、百貨店の方との打ち合わせ、スタッフ採用など、ヘアメイクばかりやってきた私からしたら、未知の仕事です。
新店舗立ち上げ以外にも、名古屋、大阪、福岡と離れた地域の店舗の状況を見なくてはいけない、月の半分は出張でした。
今までの技術ばかりの日々から、数字や店舗運営を考える日々。
本当にやりたいことではないと思いながらも、任されたからにはと必死でした。
ある日、社長から福岡のアルバイトスタッフを名古屋に社員として迎えたいから転勤の話をしてほしいと言われました。
福岡のスタッフにそのことを告げたが、名古屋行きを拒まれ、
社長には、何とか説得してほしいと言われ、福岡から離れたくないスタッフは首を縦に振らず・・・
社長には、名古屋に来ないなら社員にしないと言われ
それをまた福岡のスタッフに告げ・・・
そんなやり取りがあった数日後、福岡のスタッフの親御さんから本社に手紙がきました。
社長からこんな手紙が来た。読みなさいと渡された手紙には、
これまでの経緯に対しての私への不信感を3枚に渡って書いてありましした。
人生初です。
ここまで人に悪く思われていたことを、直接目にすることは。
涙が止まりませんでした。
社長からは、スタッフを失ったことに対して、反省しなさいの言葉。
私は何も言い返せませんでしたが、心の底では社長の指示、言われたことをやったのに・・・と腑に落ちない気持ちも。
今の仕事が自分のやりたいことと違うと思いながらやっていたからかもしれません。
だからうまくスタッフとのコミュニケーションがとれなかったのでしょう。
ヘアメイクをやりたくて入った会社なのに、スーツを着て百貨店や商業施設に向かう。
本社のPCで数字を追っている。
私は何がやりたくてこの会社に入ったのか・・・
そんな風に思うようになりました。
当時はただただ落ち込み、社長の指示に従った私がなんでこんな思いをしなくちゃいけないの!!それしか思えませんでした。
そして、私はこのまま営業マネージャーとして、そしてヘアメイクができない会社を続けていくことができずに、退職を選びました。
新たな出発
退職後は東京に戻り、やりがいを感じていた教えることを仕事にしたいと
専門学校の非常勤講師になりました。
教えることは最大の学びでした。
どうやったらできるようになるのか、同じことを教えても、飲み込める学生とそうでない学生。
目標を達成するには、どの方法を使って教えるべきか。
思考錯誤しながらも、講師としての仕事は充実していました。
2年が経った頃、大好きだった祖母が他界しました。
このことをきっかけに、父から福岡で一緒に住みたいと言われ、福岡の実家に住むことにしました。
福岡の実家に住むようになってからは、仕事が本当になくて、実家だからなんとか
生活はできていましたが、両親に甘えることもできない、仕事もない、お金もない、友達もいない、やる気がでない、ないないづくしで、体調も崩してしまいました。
体重も大人になって初の40キロをきってしまいました。
そんなとき、名古屋で一緒に仕事をしていた同僚の結婚式に呼ばれました。
そこで今の夫に出会いました。
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