寺田紀之

 

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邪馬臺國はどのような国であったのか?(その1:文化・風俗の記述)

邪馬臺國について、添付の表に、魏志の記述をまとめた。かなり多くあるので、すぐ比定地を絞れそうに思えるが、世の中には、数十と言われる説がある。どうしてなのだろうか?真実はひとつだけであり、真実以外の説は記述に合致しない。最初に比定地を決めて、その所在地に合致するように魏志を読み解くと矛盾が多く出てくる。そこで、「魏志の記述が間違いである。」、「実際には、記述されている国(奴國、投馬國など)には行っていない。伝聞情報である。」、「気候、周辺の記述は、倭国全般の伝聞情報に過ぎない。」などと、記述を無視、或いは言及していないのである。これら、数十もの説を多く読んだ読者は、あたかも魏志倭人伝が「間違いだらけの史書」であるかのような印象を受け、そのイメージが定着してしまったようである。本当に魏志は間違いだらけなのであろうか?

記述を解読すると女王國には次のような特徴があったことがわかる。

●気候が温暖であり、裸足で生活し、冬でも生野菜を食べていた。手づかみで食べる。

これを、倭国一般の伝聞情報として、全く考慮しない説がある。倭国とは「倭人が住んでいる地域」という意味であり、統一的な組織的国家は意味していない。当時、倭人は、朝鮮半島南部から日本列島まで居住していたことが認識されていた。朝鮮半島南部や、冬季に降雪のある日本海側の地域が、このような記述になるはずがないのである。一般的な伝聞情報として解釈するためには、当時中国人から認識されていた倭国の南北の範囲はとても広いのである。

また箸を使っていなかったようであるので、箸墓古墳が邪馬臺國の墓であると比定するのは、疑問が生じる。

●水銀と翡翠を産出していた

「出真珠青玉 其山有丹」(真珠や青玉[翡翠]を産出する。その山には丹がある。)」

丹とは水銀(赤色硫化水銀;HgS)のことであり、辰砂(しんしゃ)ともいう。当時、水銀は金より貴重であったいう説があり、秦の始皇帝の墓は水銀の海で満たされている。古代から顔料、染料、朱肉、薬などに幅広く活用されてきた。また、墳墓にて死者を弔うために朱色の顔料を使用する風習も古くから存在し、弥生時代においてはすでに埋蔵する骨に水銀朱を用いた赤色顔料を塗布する事例が認められている。また毒性があるので、細菌を殺すための薬としても使われていた。さらに重要なことは、青銅器の加工、研磨に必須であったことである。古代、銅鏡は貴重なものであったが、この銅製の鏡を研磨するために水銀が使われ、また青銅器を加工するためにも水銀が必要であった。実際、奈良の大仏を鋳造する際、大量の水銀が使われていた。

北海道を除く本州の主要な水銀鉱脈は大和、阿波、九州南部、九州西部の4か所である(厳密にはこの4か所以外でも小さな鉱脈はある)。このうち弥生時代に水銀が採掘されたところは阿波の若杉山遺跡と、三重の丹生鉱山の2か所しかなかった。他の地域から発掘されている水銀は中国産であった。

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/.../value01/value02

「正始四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、【丹】、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。」

とあるので、邪馬壹国が自国内で水銀を生産しており、魏に献上したのである。従って、邪馬臺國の領土内には【丹】、水銀の産地(鉱山)があったのである。中国から輸入した水銀をまた魏に送り返し献上するとは、とても考えられない。従って、「其の山、丹有り」という記述は、倭国全般の伝聞情報ではない。

日本で翡翠(青玉)が産出されているのは、ほぼ10か所程度に限定されている。糸魚川および糸魚川周辺地域(朝日町・小谷村・白馬村)、鳥取県若桜(わかさ)町、兵庫県養父市大屋(おおや)、岡山県新見市大佐(おおさ)、長崎県長崎市(三重・琴海)、北海道旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市引佐、徳島県、高知市、熊本県八代市からヒスイが発見されている。奈良では、翡翠は産出されていない。

●鉄の矢じりがあった

当時鉄は、重要かつ貴重な物であり、農業国家に発展するために大きな役割を果たした。最初の鉄器はBC4世紀頃、燕から北部九州に渡来したと推定されている。弥生時代の鉄器の多くは朝鮮半島由来のものと考えられている。しかし、矢じりは消耗品である。すべて貴重な輸入品に頼るわけにはいかなかったと推定できる。

日本最古級の鍛冶場工房として、徳島県【加茂谷の加茂宮ノ前遺跡】(最古と考えらえている)、次に淡路島の【五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)】がある。

●邪馬臺國は海洋民族であった

邪馬臺國は農業大国であったいう説があるが、農作物に関しては、「稲、カラムシ(繊維の元となる多年草)を植えている」とあるが、記述が少ない。これに対して、海に関する記述は多い。

―「倭の者が船で海を渡る際、持衰(ジサイ)という役目の人が選定される。持衰は人と接さず、虱(シラミ)を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。」

―「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍(みつばち)の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によって違いがある。」

この記述は倭人の文化を会稽の文化と混同したようであるが、顔などに入れ墨をしており、魚や蛤を取っていたことは事実であろう。入れ墨は、古代から世界共通の船乗りの文化である。

「難升米(なしめ)は魏に、鉛丹(水銀ではなく鉛の化合物。船底に腐食防止の目的で使用された。)を所望した。」

「景初二年(238年、景初三年ではないかという説もある)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。魏は「絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、【鉛丹】各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。」と述べた。

この記述は「100枚の卑弥呼の鏡」として有名ではあるが、難升米は【鉛丹】も所望したのである。鉛丹は水銀ではない。橙赤色の鉛の化合物(Pb3O4)であり、舟の腐食防止のために塗料として用いられていた。近代まで、船底に赤い塗料として使われていた。多量の鉛丹を欲したということは、邪馬臺國が多くの舟を保有していたことを意味する。また鉄の矢じりがあったということなので、舟を利用し、大量の矢を射る海戦が得意の民族であったことが推察できる。

当時の邪馬臺國は、海洋民族国家から、農業国家へ移行する途上の時期であったと考えられる。

●卜骨による占いをしていた。

7300年前の、鬼界カルデラ(鹿児島沖)の大噴火により、多くの縄文人が朝鮮半島、中国南東部に逃れた。殷、周の時代には倭人が中国にも住んでいたのである。殷の時代、甲骨文字が使われており、また「卜骨による占い」も行われていた。甲骨文字は、日本の神代文字であるアヒル草文字に酷似している。おそらく、殷滅亡時に、倭人が殷から、この甲骨文字と「卜骨による占い」の文化を持ち帰ったものと推察できる。実際、日本で発掘された卜骨は、添付図のように、対馬、壱岐、瀬戸内、東海、関東など、ベルト状に分布している。このエリアに倭人が殷から持ち帰った文化が根付いたものと推定できる。