北杜市考古資料館 Hokuto City Archeological Museum

6月19日 14:51  · 

【貸出中のお知らせ】

山梨県立考古博物館 開館40周年記念特別展「星降る中部高地の縄文世界─黒曜石ネットワークによる物流と人流─」への展示のため、土器6点と、黒曜石、ヒスイ製装身具等が本日出発しました。

深鉢形土器(諸磯c式土器)甲ッ原遺跡

深鉢形土器(藤内式土器)柳新居遺跡

深鉢形土器(藤内式土器)石原田北遺跡

深鉢形土器(藤内式土器)寺所第2遺跡

深鉢形土器(加曽利E4式土器)小屋敷遺跡

搭状把手付深鉢形土器(井戸尻式土器)高松遺跡

黒曜石

ヒスイ製装身具

会期: 令和5年7月8日(土曜日)~9月3日(日曜日)

ぜひこの機会に足をお運びください。

https://www.pref.yamanashi.jp/.../exhibit/2023/special.html

 

この2枚の鏡には、三国さんごく時代の中国の年号が刻まれています。一枚は正始せいし元年の銘がある豊岡市の森尾もりお古墳こふん出土しゅつどきょうをモデルにした復元鏡です。正始は中国の中原ちゅうげんを中心に曹操そうそうが樹立したの年号であり、正始元年は西暦240年にあたります。

魏志倭人伝には、倭国の女王卑弥呼が魏に使いを送って、西暦240年魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったという記述があります。森尾古墳の鏡は、まさにその年号が記されており、魏から卑弥呼がもらった銅鏡の一部である可能性も考えられます。

もう一枚は宝塚市の安倉あぐら高塚たかつか古墳こふんから出土した赤烏せきう7年の紀年銘きねんめいのある鏡です。赤烏は、中国の江南こうなん地方を中心として孫権そんけんが樹立した呉の年号であり、赤烏7年は西暦244年にあたります。

この鏡は、呉の国からもらったものであることは間違いないのでしょうが、いったい誰がもらったかが問題となります。当時倭国なり邪馬台国が呉の国と交渉があったという文献の記録はなく、そのなぞは深まります。当時の邪馬台国は、呉と敵対関係にあった魏と国交を結んでおり、呉とも国交を結んでいるという可能性が考えにくいからです。しかしこの鏡が存在する以上、呉の国と倭国の交渉が存在したことは間違いありません。このように時に考古資料は文献の記述にはない情報を今に伝えてくれることがあります。

前のポイント次のポイント

まいぶん用語集_さ行_赤烏元年(238年)

銘神獣鏡(せきうがんねんめいしんじゅうきょう)

索引

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か行

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な行

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や行

ら行

わ行

中国三国時代の一国、呉の年号である赤烏の銘がある神獣鏡のことです。下の写真の神獣鏡は、市川三郷町鳥居原狐塚古墳から発見された銅鏡です。(直径12.5cm。内側には、四神四獣が配されており、四神像は立像と座像が四獣と交互に配されています。)

中国の呉の年号である赤烏の銘がある鏡は日本国内での出土例は少なく、鳥居原狐塚古墳出土の鏡と兵庫県宝塚市安倉高塚古墳出土の赤烏七年銘の鏡くらいです。

赤烏元年銘神獣鏡

鳥居原狐塚古墳(山梨県西八代郡市川三郷町大塚)から出土した赤烏元年銘神獣鏡

関連遺跡トピックス→No.0419

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鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん、鳥居原古墳)は、

山梨県市川三郷町大塚にある古墳。形状は円墳。市川三郷町指定史跡に指定され(指定名称は「狐塚古墳」)、出土神獣鏡は国の重要文化財に指定されている。

赤鳥元年(238年)銘神獣鏡の出土で知られる。

概要[編集]

甲府盆地南部、市川三郷町域の北東端に位置。曽根丘陵西端の支丘上に立地する。標高は320メートル付近。曽根丘陵は東海地方の弥生文化や畿内の古墳文化が流入した地域で、大塚古墳や伊勢塚古墳などが分布する。

開墾による破壊が激しいが、1894年明治27年)の調査で石室が確認され、昭和初年には仁科義男による調査が行われている。内部主体は割石小口積みの竪穴式石室で、内部には朱が塗布されている。埴輪は確認されていない。1979年(昭和54年)に発掘調査が行われ、副葬品として仿製内行花文鏡、舶載の神獣鏡(対置式赤烏元年紀年銘鏡)、滑石臼玉鉄刀鉄剣、銅鈴、土師器片、須恵器破片などが出土している。

赤烏元年鏡[編集]

対置式神獣鏡
(国の重要文化財

外区1時半-3時に時計回りに「赤烏元年」銘。東京国立博物館展示。

赤烏元年鏡は国の重要文化財に指定され、一宮浅間神社(市川三郷町)に所蔵されている(東京国立博物館寄託)。

直径12.5センチメートル紀年銘鏡で、大陸南部のの年号である赤烏元年(238年)の紀年銘をもつ[1]

 

日本列島では弥生時代には大陸から威信材として青銅製品が移入されており、山梨県内でも貨泉(貨泉)や舶載鏡や出土している。

大陸で遼東半島地域を支配していた公孫氏と敵対する一方で呉と外交関係があったが、鏡に記されている赤烏元年には高句麗と魏の攻撃で公孫氏は滅ぼされている。

 

魏志倭人伝』によれば、日本列島では翌年に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝貢して親魏倭王の称号を与えられたといわれ、こうした東アジアの政治状況のなかで、紀年銘鏡は呉と倭国間の外交関係、あるいは公孫氏を介しての通交によりもたらされたと考えられている

(宮野淳一による)。