なると ヒカル

5月31日  · 

昨日は大雨だったので、南福岡立体駐車場にきました。

駅が近いので、にぎやかです。電車や、踏切、アナウンスが、丸聞こえで、鳥の鳴き声で起きる道の駅とまるで違った世界です。二日市の温泉近くで探しましたが、朝移動を考えると、福岡の渋滞🚗🚚🚓🚙は、半端ない車社会を痛感したので、今日の予定の福岡市埋蔵文化センターに近い所さがしました。片道5車線の道の渋滞つて、どんだけ車おおいの?だわ。 駅周辺の立体駐車場には、コンビニが隣りにある事が多く、トイレは困りません。コンビニは、トイレキレイだし。つてか、通勤の方達コンビニの裏手で、タバコたむろってたわ。笑 最大600円の駐車料金なので安心です。 置きっぱに使ってるのか? 半分埋まってます。


 

 

5月31日  · 

板付弥生時代遺跡見てきました。年代からというと、

唐津の菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもので

博多の板付遺跡2600年前の水田を含む層(晩期終末)

元岡古墳群G群6号墳(7世紀前半)から出土した大刀。刀身の棟に金象嵌で19文字の銘文が刻まれる。銘文は「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(錬カ)」と読むことができ,暦を表す干支が刻まれていることから西暦570年に作られたことが判明した。日本における暦資料として学術的に貴重なものである。

 

結構広いですが、歩いて一周しても一時間くらいかな

堀がほってあって、弥生時代の土木工事技術はどんなだったのでしょう

当時の繊維の復元がレプリカが展示されていました。

弦も復元品 
この繊維がここから出土したかどうかは分かりません。
左から順に素材は麻、リースは不明、葛、カラムシ(バッグ)
(カラムシは草の一種です。)

時代/古墳  所在地/福岡県福岡市博多区井相田2-1-94

板付弥生時代遺跡見てきました。

直径が18mの横穴式石室墳

西区 元岡6-6号墳出土 康寅銘大刀

元岡古墳群G群6号墳(7世紀前半)から出土した大刀。

刀身の棟に金象嵌で19文字の銘文が刻まれる。銘文は「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(錬カ)」と読むことができ,暦を表す干支が刻まれていることから西暦570年に作られたことが判明した。

日本における暦資料として学術的に貴重なものである。

 

九州の田んぼの遺跡 およそ2500年前には完成していた。

 

唐津の菜畑遺跡を見逃しました(^_^;) 博多の復元整備された弥生時代最古の農村板付遺跡は見学してきました。そして最古と言われるのが都城坂元A遺跡に作られた水田跡この3つの勢力は互いに牽制し合いながら存続していたようです。

 

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/.../cultur.../detail/737 

元岡古墳群は、福岡市西区元岡の丘陵に広く分布する古墳の総称である。

古墳群は前方後円墳7基のほかA群からO群までの古墳群から構成されている。その中でG群と名付けられた古墳群は丘陵の南端にあり、当時は南に入海を望む場所に6基の小型の古墳が作られている。

6号墳は谷の奥に作られた古墳で、墳丘の直径が18mの横穴式石室墳である。墳丘は果樹園の造成によって完全になくなっていたが、発掘の結果、墳丘の周りを囲む溝と南側に入り口を開けた石室が見つかった。

石室の中からは大刀(たち)1振のほか、鉄製の武器・工具・馬具、土器、玉類や耳環等の装身具が出土した。この大刀には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果練」の19文字が金の象嵌で刻まれ、縁起の良い日に作られた優れた大刀であることが書かれている。2つの「庚寅」の干支から大刀が西暦570年1月6日に作られたことも分かり、国内で最初に暦が使用されたことを示す重要な資料になっている。

出土した土器から古墳が6世紀末に作られ、7世紀半ばまで追葬と祭祀が繰り返されていたことも分かった。この古墳に埋葬された、大刀を持っていた人物は糸島地域に勢力を張るとともに、暦などの新しい知識に通じていた有力者だったとみられる。

 

お目当ての楽器 お琴です

神功皇后とお琴 (*^^*)

当時はこんなお琴だったのかも?

なると ヒカル

日本中いたるところに墳墓土壙墓、古墳も色んな種類棺桶も色んな種類があるのよ。縄文時代に船がなかった?有るから、交易していた証拠がたくさん出ている。捕鯨した記録とも言える遺物が発見されている。古代に馬が居なかった? 馬車がなかった?牛車が平安時代に描かれているのに? 変だと思わないのかね。馬のほうが断然早いんだよ?しかも人力車しか江戸に無かったの? 流鏑馬やっていた証拠がたくさんあるのに? 

日本の馬はポニーで人が乗れない?とか全くでたらめだと思うわ。

 

聖徳太子が厩戸皇子 馬が大好き人間だったのは証拠がたくさんある。

この人物が過去に生存していた証拠が山ほどある。

 

TVドラマ崇拝や歴史教科書の嘘やカット報道にはつくづく嫌になる。

これが、日教組の力だと思うと日本人よ、真実を知ろう!だわ。

 

日本の金がいつから掘られていたのか?純度99%の金メッキの鉄剣は行田古墳4世紀よ。そして仏像の金箔が剥がされて居たのでは? 日本技術の進化発展は他国の追髄を許さないわよ。三角縁神獣鏡だって1000枚は有ると言われているの。前方後円墳は墳墓の完成形で、やたらと関東にあるのよ。

卑弥呼の無くなったあとで爆発的に増えるのは、神功皇后のほうが日本統一成し遂げたからでしょ?

鏡を日本で作っていた可能性を否定する学者って、何処の国の人?と思うわよ。

魏志倭人伝で100枚もらった鏡は、交易品として売りさばくだろうし、持っていた部族から戦利品として奪った歴史がないわけ?粛清された卑弥呼の時代にこだわりすぎて、見えていないのよ。

日本は関西だけがヤマトではないとね。

ヤマトタケルの遠征は「日本書紀」に記述されていて船で千葉まで行ってるのよ。

聖徳太子も馬で群馬に行ってるの。

日本人は何処へでも行ける交通手段があったのではないでしょうか?だから、和歌山にも行ってるけれど、和歌山は神武東征でも言及している、神武朝に逆らっていた土地よ。長恒彦のテリトリーだった? 

淡も和歌山も逆らっていたのではないですか? 

なのに忌部氏が重要な要職についていたのに排除されている。解明していないことがまだまだたくさんありすぎて、

日々更新する妄想ですわ。

 

福岡市埋蔵文化センターにもよりました

サザエさん通りε( o´<`o)3 作者の長谷川マチ子さんの住んでた場所だそうです。 

サザエさん発祥地ですって。 知らんかったわ

国宝の金印見てきました

 

 

美術館に行こうと思って居たのだけど、

行ってみたけれど、時間的に見ることができなかった。

 

5月31日 

宗像大社にお参りしました。 宗像三女神祀ってると思いきや? はてな満載のじんじやさまでした。

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宗像大社の社殿は、天応元年(781)に三女神を初めて一所の神殿に祀ったとする説、また建長年間(1249~56)に現在地に移ったとする説がある。現在の本殿(辺津宮)は、天正4~6年(1576~78)の再建。正面の柱が6本で柱間が5間、手前の屋根が長く伸びた五間社流造(ごけんしゃながれづくり)である。

原文は「……吹き棄(う)つる気吹(いぶき)のさ霧に成れる神の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名は奥津島比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(い)ふ。次に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと亦の御名は狭依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂ふ。次に多岐都比賣命(たきつひめのみこと)。」となっている。

https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-238-17-09-g149#:~:text=宗像三女神は、国,も信仰されている。

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わかりやすく漢字を当てると 

市寸島比売命は市の神 商人の神様

多岐都比売命 は滝津姫 滝=港は津を表し都のことで湧水、井戸、飲水の神様

多紀理姫命はタ霧姫雲や霧の神様で航行するとき見えなくなる水先案内人の役目

三人それぞれのお役目を持った神様らしいのよ。

 元々のこの地にあつたのは蛭子さまでした。恵比寿さまは、事代主さま?と、比定される事もあるかみさま。 

宗像三女神様なので、女神様をお祀りしてるはずなのに、何故か千木は男神様様! 宮司様にも、お聴きしましたが、ここは、女神様をお祀りしてるとの事! 市杵島姫命は祀られてませんが、二柱の神様は、田心姫と多岐りひめで、お伊勢様のげぐに祀られてるのに、外宮では無い?案内表示が無ちゃくちやで、もう❓ ハテナ??満載で、宮司さんも、実はわかつてないかも? 

伊勢内宮の建て替えで、おさがりの、伊邪那美、伊邪那岐の建物移設をして、

たぎり姫とたぎつ姫のお宮を立てたのがやっとわかつた。 

案内板表記がめちゃくちゃなんだわ。

 

アマテラスとスサノオの誓約で生まれた三女神

その謎に迫りたくてお参りしたのに、余計に混乱中(^_^;)

末社めぐりで 恵比寿様≒事代主様が出てきてこんにちはでした。(笑)

 

5月31日  · 

萬田うどんにきました。

麺の透明感と、ビョーンって伸びる感じは、初めての食感でした。

うどんは普通伸縮性は無いと思っていたのが覆る(笑)

こんなに違うんだと思いました。

冷麺にちかかも?

牛蒡のかき揚げ これがめちゃくちゃ美味しい。

トウモロコシも玉ねぎのかき揚げも、素材のお味が最高にいかされてました。

何と言っても四国九州のツユ!だしが美味しい

ウんまかった( ¯﹀¯ ) 教えてくれたみきちゃんに感謝❤(ӦvӦ。)

なると ヒカル

5月31日  · 

天然温泉サクラ館

 

吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で新発見、邪馬台国時代の石棺墓

2023/05/29 — 佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。

吉野ケ里遺跡! 吉野ケ里遺跡で卑弥呼の時代の石棺が発見され、来月5日に開封されると発表されました。

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 自分が考えていた吉野ケ里のイメージは 「西暦60年頃に倭奴国により亡され、以後、人は住んで居ない」と思っていましたので以外でした。 その石棺の中身が王であったり、又は王の宝物であれば、自分の意見を一から考え直さなければなりません。

 ここで、一つ仮説を建てます。 

①吉野ケ里(倭目土国)は、西暦60年頃に倭奴国により滅ぼさた。 

②吉野ケ里(倭目土国)から逃れた人達が日田市で二つの国を造った。 これが、倭目土国(豆田町)と躬臣国(京町)です。 

③二つの国は大和朝廷(九州内に有り)、に積極的に協力し、西暦170年頃に倭奴国を倒し敵を討った。 これが倭国大乱です。 

 

特に、倭目土国は安寧天皇(師升・磯城)の使いとして漢国へ渡り、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を受領して来た。 

この鏡は、漢倭奴王印に対抗し、味方を集める役目を果たした。 これが、ひたのかがみ(ヤタの鏡)です。

 

 ④倭奴国を倒し、吉野ケ里へ近づくことが出来る様になった倭目土国の人達は、吉野ケ里近辺の遺骨を集め鳥居を建てて弔った。170年〜200年頃 

⑤つまり、私の仮説は『大型石棺の中身は大人数の骨が入っている』です。 当たるといいなー。