世界は大きく分けて4つの金融システムが動いています。

DSvsトランプQvsBRICSvsイスラム圏
これを頭に入れないと今起きてる金融戦争が説明できません。

 

DSデープステイトの支配は、東インド会社から始まっています。

各国の王朝に揺さぶりをかけた人たちが居ます。

陰謀論ではわからない、歴史からの読み解きです。

 

尖閣:
もともとは、先住民の住んでいる場所。
国という単位がない頃まで統治なんてされていなかった。
沖縄には琉球王国があったけれど、
彼らに統治されているわけでもなかった。 
フィリピンから台湾・沖縄に続く列島は 
それぞれの先住民が暮らしていた土地に過ぎない。

そこに現れたのがオランダ! 
彼らが統治して支配した。

 

ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)
1500年前半に相当数の島が発見され、
その後、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。

オランダがインドネシアを勢力圏として
香料諸島からポルトガル勢力を駆逐するまでに
100年かかっている。


1600年前後にはオランダ統治に変わっている。

この大航海時代にヨーローッパ人が侵略して
原住民を支配していった
歴史書には都合の悪いことは残っていないが、
想像するに、鉄砲を振りかざして
やりたい放題だったのではと思うと
きもちが悪い。

 

この名残が世界各地のポルトガル語や、スペイン語、
英語の拡散だ。

 

秀吉の時代にはポルトガル語が日本に入っている。
江戸時代にはオランダ語が入っている。
そして沢山のカタカナが名残として残っている。
江戸時代によって守られたのが日本語だ。

 

香港はこの大航海時代にイギリスの統治領土になっている

日本がオランダに支配されなかったのは江戸幕府の
鎖国政策で自由に就航するのを禁じられていたからだ。

と言っても、密輸は入るし、
民間レベルの貿易が止むわけではなかった。
それが実情だと思う。

 

歴史学者が反論するんだろうけど。
尖閣には代々、漁をして暮らす人が居て不思議がなく、
昭和には、日本人の鰹節工場があった。

地球に線引きを大きく変えたのはこの大航海時代だ。
日本は明治になってから、戦争でそれらの土地を
統治していた。


そこには歴史が有るはずだけど、
誰も言おうとはしない。

台湾が日本統治だったのは知っているだろうし
フィリピンに日本兵が居たのも知ってるよね。
でも、そこに何があったのかは、
日本では教えない。

 

オランダ東インド会社
(オランダひがしインドがいしゃ、
正式には連合東インド会社、
オランダ語 : Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC)

1602年3月20日にオランダで設立され、
世界初の株式会社といわれる。
会社といっても商業活動のみでなく、
条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など
喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。
アジアでの交易や植民に従事し、
一大海上帝国を築いた。

 

当時の様子を

フェルメールが絵に残しています。

フェルメール35作品が見れます 圧巻っ!フェルメールの現存全35作品を見比べてみた!
どんな雄弁な歴史書よりも
動画のようにそこに会話が流れ、音楽が流れ、
ストーリーが描かれています。
人間模様が大胆に描かれて、
この時代の息吹が感じられますよね。

フェルメールの絵には衣装の素晴らしさ
身につける宝石のおしゃれ、楽器 
おしゃれな食器 
ワイングラス、水差し、牛乳のツボ
ふっくらしたパン
楽器は何を物語、手紙でのやり取りで何を書いていたのか?

そこには物語が存在してる。
装飾家具とステンドグラス
おしゃれな床やペルシャ絨毯 カーテン等のインテリア
この時代じゃなくても、
憧れるような物が溢れています。

そして 私が見てほしいのは
壁の地図や 地球儀!!!

今とだいぶ違う地図です。

測量が発達していなくて、

かかった時間を元にして感じたように地図を書いたのかもね。

 

描かれた自分物はそこに生きていたのではないですか?

彼らは、東インド会社の富の中に生きていたってことです。
フェルメールは 酒屋さんがスポンサーですよね。(笑)

彼の画は35点しか残ってはいませんが、

船で何処かに運ばれていたかもしれませんね。

 

フェルメールの時代とかぶるのが江戸初期

そして、その当時のポルトガル人やイタリア人オランダ人は

日本人には どのように写ったのでしょうね。

東インド会社の人たちは、画家が描いた画を当時の日本人には見せなかったのでしょうか?

 

 

^ーーーウキペディアで当時の様子を調べましたーー


信長が地球儀を持っていたのは有名な話です。

そして織田信長は鉄砲隊を率いていましたが

鉄砲隊は日本では火薬を得ることができずに廃れてしまいます。


オランダと日本の間に何があったのでしょう?

 

オランダ人が 福岡長崎熊本 船なので入港可能ですよね。

日本は種子島がその取引港になっていたようですが。

当時のバテレン(宣教師)たちは 京都に召し上げられて

公家に情報・貿易品が伝わっていたのでしょう。

公家にキリシタンが広がった。

それはガラシャが京都にいた事と、オルガンティーノが布教していた事

繋がりますね。

 

 

芥川龍之介、「神神の微笑」 日本に宣教師が来た当時のことが描かれています。
細川ガラシャを葬ったと言われる オルガンティーノが主人公です。

オルガンディーノはイタリア人宣教師です。

1500年代に実在した人物を登場させています。

細川ガラシャとは(明智玉子・明智玉)です。

本能寺の変で織田信長を討ち取った

明智光秀の娘であり細川忠興の妻です。

 

細川氏(ほそかわし)は、

鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家本姓源氏

清和源氏の名門足利氏の支流。

名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。

南北朝時代足利尊氏に従って発展し、

嫡流は室町幕府管領家に列する有力守護大名となる。

また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。

 

細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年昭和13年〉1月14日 - )は、日本の元政治家陶芸家茶人

関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名細川忠興の直系子孫で、旧熊本藩細川家第17代当主・細川護貞と、五摂家筆頭近衛家の第29代当主で昭和初期に貴族院議長内閣総理大臣を歴任した近衛文麿の次女・温子との間の長男として、東京府東京市(現在の東京都千代田区)に生まれる

 

バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、

1587年7月24日天正15年6月19日)に豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令した

キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。

バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来する。

 

 

豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、

キリスト教布教を容認していた。

1586年(天正14年)3月16日には大坂城イエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、

同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。

 

しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、

長崎がイエズス会領となっていることを知らされた。

これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め

、この翌日の6月19日7月24日)ポルトガル側通商責任者

カピタン・モールドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、

宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。

 

 

ポルトガルの奴隷貿易(ポルトガルのどれいぼうえき)では、主に16世紀以降のポルトガル人によるアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。15世紀以降の大航海時代になると、黒人奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人アジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていった

 

マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易[編集]

16世紀以降、ポルトガルは中国の海岸部に交易のための港と居住地を確保しようとした。しかしながら基地を確保しようとする初期のこのような活動は、例えば寧波泉州において行われたが、中国人に壊滅させられてしまった。引き続いて今度はポルトガル人入植者が暴力的な侵入を行い、略奪をし、しばしば奴隷狩りを行った[66][67][68][69][70]。 ポルトガル人のこのような振る舞いに対する不満が中国側の省の長官に届き、ポルトガル人の居住施設の破壊とその居住者の一掃が命じられた。1545年に、6万人の中国兵がポルトガル人が住み着いていた場所を急襲し、1,200人の居住者のうち800人が殺害され、25艘の船と42艇のジャンクが破壊された

 

 

1622年6月24日、オランダ共和国マカオの戦いにおいてマカオを攻撃した。目的はこの地域をオランダ領にすることであった。オランダ軍はコルネリス・ライエルスゾーン(Kornelis Reyerszoon)隊長に率いられた800名の強力な侵略軍であった。数的に劣勢であったポルトガル側はオランダ軍の攻撃を撃退し、攻撃が繰り返されることはなかった。ポルトガル側の大多数はアフリカ人奴隷であった。そしてわずか2〜30人のポルトガル人の兵士と司祭が支援したが、この戦いの犠牲者の大多数はアフリカ人奴隷であった[79] [80] [81] [82]。敗北の後、オランダの総督のヤン・クーンはマカオの奴隷たちについて「我々の民を打ち負かし追い出したのは彼らだ」と述べている [83] [84] [85] [86]。 1800年代の清朝の時期に、イギリス領事は、ポルトガル人が未だに5〜8歳の子ども人身売買していると記している[87] [88] [89]

1814年に嘉慶帝が大清律例・礼律・祭祀の「禁止師巫邪術」の項に1つの条文を付け加えた。これは1821年に改訂が行われ、1826年に道光帝によって公布された。その条文により、ヨーロッパ人、すなわちポルトガル人キリスト教徒で、キリスト教への改宗を反省しない者については新疆にあるイスラームの都市に送り、奴隷の身分にするとされた[90]

 

引用元👉https://ja.wikipedia.org/wiki/ポルトガルの奴隷貿易#マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易

 

ーーーend 

 

熊本に居た細川家とキリシタンのその後のつながりが気になりますね。

藩主の細川忠利は今の福岡県みやこ町犀川大村地区に自生するブドウ科のエビヅル(通称ガラミ)で

ぶどう酒(ワイン)を造った。

当時の人達にはワインは憧れだったのでは?

バテレンが持ち込んだワイングラスはどのように人々の目に写ったのでしょうか?

小倉城は、福岡県北九州市小倉北区にある日本の城

 

^---  

小倉城は1602年に細川忠興が築城。

32年から小笠原家が城主となった。

1837年の火災で城は全焼し、

1959年まで天守閣は再建されていない。

 

調査は築城技術の解明などを目的に、2月下旬から約1カ月間実施。

天守閣を囲む内堀の水を抜いて8メートル四方を深さ約2・5メートルにわたり発掘し、

千点以上の瓦や約50点の木材片などを発見した。

木材は多くが焼け焦げており、

同財団は「火災の際、天守閣の柱に使われていた木材片や瓦が焼け落ちた」とみる。

 瓦は小笠原家の家紋「三階菱」や細川家の家紋「九曜」のほか、豊臣家の家紋「桐(きり)」を記したものもあった。小倉城は忠興の築城前に戦国大名の毛利元就が平城を築いたとされ、「豊臣家とゆかりが深い毛利家が使った瓦の可能性がある」(同財団)という。

ーーーend 

歴史を知ると、関ヶ原の戦いって 未だ終わっていないの?

と感じてしまう。(笑) 

 

 


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