☞ 活かされなかった極秘情報

途中からですが 書き起こしてみました。
NHK が4年前に作ったのですね。 問いかけが沢山あります。

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何故軍の情報部は 特殊情報部の
「自分たちの上げた情報が 
「自分の意見が聞いてもらえない。残念やったとゆう気持ちがありありと出てますね。こんだけ日本が最後まで攻められてきているのにですね、判断が鈍いと言うことを自分では分かってるんだけれども 参謀の他の方には通じなかったと」
広島の司令部に学徒動員されていた(岡芳江さん)です。
爆心地から 僅か700mの所に居ましたが 地下壕の中にいたため無事でした。
しかし、近くの広場に朝礼に出ていた60人の同級生は全員が亡くなりました。
「あの時、空襲警報さえ出ていれば」岡さんは今も悔やんでいます。
「~~~~沢山の人が 防空壕に居たら亡くならなくてすんだんじゃないか? 沢山助かったのではないかと思いましたね。」
原爆を落とされた後傷ついた同級生の看護にあたった岡さん
次々と亡くなっていく姿を見守るしかありませんでした。
「~~~~ 『私はお国の為に死んでいくのですから。』  もう焼けただれた顔でね、
それでも、安らかな、安らかな顔して 息を引き取っていくんですね。そういう人達を目の前で見ながら、私たちは辛くて辛くて ホントにつらい毎日でしたね」
原爆投下後 翌日 8月7日
広島壊滅の知らせを受けても、 陸軍は それが原子爆弾だと認めようとはしませんでした。 
(東郷重盛外務大臣) は事実の確認を迫りました。
それに対して、陸軍幹部はこう答えています。
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米国では、原子爆弾とか行って居るけれども 非情に力の強い 普通の爆弾 
とも思われる。
 
~~~~~ 
原爆を否定する陸軍が その影響を非常に小さく見せようとしていた
東郷大臣は述べています。
しかし、参謀本部では広島に落とされたのは原子爆弾であると内部では認めていました。
原爆投下後2日め 8月8日
特殊情報部の中庭で、参謀本部による 表彰式が行われていました。
原爆機の コールサインを突き止めた功績が評価されたのです。
表彰式に出席していた人物が居ました。
特殊情報部の元大尉(田中邦夫氏 90歳)です。
参謀本部の幹部がV600 番台のB29が原爆を搭載していたと説明していたというのを聞いていました
「これがね、最も恐ろしい原子爆弾を積んでいる飛行機だと、これをね、
全部ですね、追跡して 撃滅 するという。 お前さんら  ねぎらいのね、お言葉をいただいた」
8月9日未明
再び、あの、コールサインが傍受されます。
ヒロシマの時と全く同じV 675 発信元も同じテニアン島でした
この コールサインを実際に傍受していた人物が居ました。
(太田新雄さん 90歳)です
その時の状況を初めてカメラの前で語りました。
「また、広島に落とした、B29の時と同じ電波を使って
テンアン島から 、内容なんて別に、電波出しただけ
これを、私が掴んだ、これは普通ではないぞ。 と思って非常に不安を感じた。
何処だかか分からないけれど、日本国内に何処かに落とされる
 数時間後に落とされる危険大。」
この情報は、軍の中枢にまで伝わっていました。
それを裏付ける新たな資料が防衛省防衛研究所で見つかりました。
 
資料を残していたのは参謀本部の(井上忠雄中佐)
参謀本部のトップ(梅酢芳次郎) 氏に情報を伝える側近でした。
井上中佐が、重要な情報を書き留めていた【備忘録】です。
この中に、8月9日の事を記した走り書きがの残されていました。
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特殊爆弾   V 675
通信上 事前に察知する
長崎爆撃5時間前

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原爆機接近の情報は、5時間も前に参謀本部の中枢に伝わっていたのです。
長崎から北へ15Km  大村の飛行場には、このころ九州全域を護るため戦闘機部隊が配置されていました。その舞台でパイロットを務めていた(本田実さん88歳)です
本田さんたちが乗っていた《戦闘機  紫電改》 
B29が飛ぶ高度1万メートルまで飛行可能な数少ない戦闘機でした。
本田さんは 原爆を積んだB29が来たら 体当たりしてでも落とさなければならないと覚悟を決めていたと言います。実は本田さんは、原爆が炸裂する瞬間を 偶然 上空から目撃していました。
、兵庫県から大村の基地に戻る途中の事でした。
「~~~~ 今見た広島の街が消えてなくなってる。頭がおかしくなって現実かどうかも検討付かないんですよ」  
8月9日午前9時
テニアン島を飛び立ったB29は 九州に接近していました。
第2の原爆を搭載したB29はボックスカーです
最初に向かったのは福岡の 小倉 しかし、視界が悪かったため
攻撃目標を切り替えます。
島原半島を西へ進み  次の目標長崎へと向かったのです。
しかし、本田さん達の部隊に出撃命令が出されることはありませんでした。
長崎に向かう B29は確認されていましたが
それが原爆機であるという情報は伝えられていなかったのです。
「~~~非常に難しいですけどね。~~~落ちない飛行機じゃないですね。非情に悔しいですね。なんで出撃命令を出さなかったのか?  それほど情報が無かったんでしょうかね?」
この時、軍の上層部は何をしていたのか?
皇居では「最高 戦争指導者会議」が開かれていました8月9日午前10時30分
更なる戦況悪化を伝える情報が入っていたのです。
中立を護っていたソビエトが、【日本に対して宣戦布告】 満州との国境を越えてきたのです。
【ポツダム宣言】を受諾し無条件降伏するかどうかがこの日の議論の焦点でした。
降伏すれば天皇の地位はどうなるのか?

自分たちは戦争犯罪人として厳しく処罰されるのではないか?
皆結論を出しかねていました。
この会議の席で、(梅酢官房長官)等、陸軍幹部は
ヒロシマに原爆を落とされてもなお 戦争を続けられるとして
こう発言しています、
「原子爆弾の惨禍が非常に大きいことは事実であるがはたして米国が続いてドンドン之を用い得るかどうか疑問である。」
「第二の原爆投下は無いだろう?」
原爆機が長崎に向かって居たその時にも、根拠のない主張を繰り返していたのです。
まだ会議が続いていた、午前11時2分
長崎に原爆が投下されます。
またしても、空襲警報さえ出されませんでした。

テニアン島から発信される電波を傍受し
第二の原爆投下の危険を報告していた太田さん
何故情報がいかされなかったのか? 今も納得できずにいます。
「悔しいたら、~~~何か努力してくれたら 諦めるかもしれないけれど、全然使った形跡がないから~~~余計悔しい 」   特殊情報部が傍受した情報を特殊情報部に伝えていた(参謀本部堀栄三少佐)
長崎の原爆についてはほとんど語っていません。戦後書き残された資料にはただ一言こう記されています。  
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テンマン島 から
コールサインを8月9日も同様にキャッチしたが
 処置なし 後の祭りとなる

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大村で出撃命令を待っていた(本田実さん)です
原爆が落とされた後、次々と運ばれてくる傷ついた人達を
病院に運ぶ仕事を命じられていました。
「もう、死ぬまで忘れることできないです。
髪の毛も無ければ何も着てない、 裸で、どろどろに溶けてる、こんなひどい事が世の中に 許されるかと思って、泣けて泣けて、なんで泣いてるのか自分でもわからんけど、~~~もずーと今なおありますよ。」
思い出すと情けなくなって ほんとに 軍人として情けないです。申し訳なくて」
本田さんは66年経った今はじめて知りました。
「分かってたなら、なんで命令 出さんのですか?5時間もあった十分対処できたはずですよね。
これが、日本の姿ですかね? こんなことまた起きるんじゃないですか? 」
8月11日
特殊情報部にある命令が下されました。
諜報記録をはじめとするすべての証拠の隠滅です。
長谷川良治さんは資料を燃やすよう命じられました。
焼けたら灰を粉にしなさい。残っていたらダメなんです。証拠隠滅です。
原爆投下を軍が知っていた事実を無かったことにされたのです。
広島と長崎、無防備な人達の頭上に投下された原子爆弾
多くの尊い命と営みが一瞬にして奪われました。
危険が迫っている事を知りながら
最後までその情報を伝えなかった軍の指導者たち
二度にわたる悲劇は
国を導く者の責任の重さを
今の時代に問いかけています。


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