映画「天気の子」を観ました。
ネタバレ含むので、まだ観てない方はスルーしてくださいね。
あの映画を観てね、人それぞれに色々思うことがあると思う。
結果的に世界より、ひとりの愛する女性を選んだ帆高。
ここだけ見たら、賛否両論もよくわかる。
だってそんなのエゴだって捉える人もいるかもしれない。
でも私はこう感じた。
《自己犠牲の上では何も成り立たない》
人柱という運命を背負った陽菜だけど、もし最後、帆高がもう一方の選択をしていたら、果たして世界は平和で調和のままだったのかな。
ひとりの人の命と引き換えに、本当に世界を救えたのかな。
私はそうは思わないんです。
もしもね、誰かの命と引き換えにこの世界が救われるなんてことがあったら、そんなの簡単な話だと思うんですよ。
実際、名乗り出る人たくさんいると思う。
でもそれで調和した世界になって平和になったとしても、それは真の平和といえるのだろうか。真に喜ばしいことなのだろうか。
災害や悲しい出来事は起こるもの。
これまでだって、これからだって起こるかもしれない。
でももちろん起こってほしくないし、それで誰かが悲しんだり苦しむことは私たちの望みではないはず。
だけど、それらはなぜ起こる?
それらが起こらなければ、私たちの意識は変わらないままかもしれない。
そうでもしなければ人間は気づかないことがある。
窮地に立たされてようやく目が覚めることがある。
だから陽菜を救ったことで、本当は世界を救ったのかもしれない。
表面的には「一人の人の命と引き換えに、世界を狂わしてしまった」そう見えるけど
でも本当は一見エゴとも捉えられそうな「一人の命を選んだことによって、それは同時に、本当の本当は世界の平和を選んでいた」のかもしれないと。
伝わるかな?
世界はもっと優しくて、愛がある。
ただ単に人間を苦しめるだけのために災害なんて起こさない。
でも人間はちっぽけだから(私も含め)目の前で起こるその出来事に、一喜一憂して「よくないことが起こった」と判断しがち。
だけど世界はそんなちっぽけではない!と私は思う。
もっともっと大きな大きな視点で見たら、それは本当に「よくないこと」と言いきれるのだろうか。
それこそが人間のエゴであり、正義の使い方の難しいところ。
「青空より陽菜がいい」と映画の中であったセリフ。
帆高は確かに世界より陽菜を選んだ。
でもそれは同時に、世界を捨てたこととは私には思えない。
さっきも書いたように、あのセリフ、人によっては一見「世界を捨てて自分たちのことしか考えてない」みたいに何て自分勝手なんだと捉える人もいるかもしれない。
本人たちも罪悪感を抱えていた場面が描かれていた。
でも、、
そう選ばせたのは世界の方かもしれない。
だから世界が帆高を選び、世界が帆高に陽菜を選ばせたのかもしれない。
最後には「でも僕たちは大丈夫」(だっけ?)ってセリフがあったよね。
あの言葉、すごくパワフルで勇気のある言葉だと思う。
もうそう生きていいんだって。
世界と今のこの時代からのメッセージにも思えたよ。
だって「大丈夫」なんだよ。
たとえ世界を敵に回しても
もう誰のために生きなくても
もう自分のために生きればいいんだよって。
エゴ、正義、愛、、
私たちが普段何の疑いもなく正義だと思い込んでいるものは、真の正義ではないかもしれない。
私たちが普段何の疑いもなく愛だと思い込んでいるものは、真の愛ではないかもしれない。
映画の作り手の意図は分からないし、映画を見て感じることは人それぞれだと思うけど、私個人的にはそう感じられる内容だった。