スピリチュアルやっている人って



〇〇しない人などの

ある概念があるようで

 

 

やさしそうとか?

悪口言わなさそうとか?

あるところでの『正しくなければならない』

みたいなことをも持たれている方

多いように思います。

 

 

 

スピリチュアルなことやってて

そんなことも〇〇〇ですか?

みたいな感じのこともです。

 

 

 

もちろん、ワタシ個人的にも

ある意味正しく生きたいとは

思って生きてはいます。

 

 

でも、『正しい』の概念も

人それぞれなようにも思います。

 

 

誰かにその正しいを

押し付けていないでしょうか?

 

 

または、自分自身を正しいに

縛っていないでしょうか?

 (縛っている人は気づかないです)

 

 

 

スピリチュアルを

やっているいないに関係なく

 

 

誰もが皆、同じなはずなのですが、

どこかスピリチュアルやっている

みたいなことに対して

特別な何かを持たれる方が

いるようにも思いますし

 

 

 

やっている自分自身が『特別なこと』を

しているように感じてしまうことも

あるのかもしれません。

(もしも、そう感じていたら

何か別物ものが憑いているかも)

 

 

 

なんら変わらないのですけどね。

 

 

 

 

な〜んて、わたしも

その昔セドナに行った時に

とある有名な本の著者の方と

同行したのですが

 

 

 

その方が『人』としてどうかなと思える

たくさんの行動をする方で

(もちろん、わたしの概念です)

 

 

スピリチュアルなことを扱って

神様ともつながっているはずなのに

本も何冊も出しているのに

どうしてこうなのかしらと

自分の概念を押し付けたことがあります。

 

 

 

〇〇だからしないとか

正しいとか

正しくないとか

自分の物差しで計ったのです。

 

 

 

 

職業に関係なく

年も性別も関係なく

誰もが等しく変わらないし

いいも悪いもない

そのことをたくさん学んだ時期があります。

 

 

 

 

スピリチュアルなことを勉強して

また、クリアリングをして

いいことしかみないのも同じで

それでは、何も本質を捉えていません。

 

 

 

光は闇がなければ見えないわけで

暗闇にあるまだ輝いていないところに

光を当てるようなことがあります。

 


 

自分を見るって

楽なことばかりではありません。

 

 

 

自分の嫌な部分を否定したり

責め続けるのも違うし

 

 

もっと成長しなければと

自分を追い込んだりするのも違うし、

 

 

 

スピリチュアルなことを深めたいなら

まずは、自分を愛すること。

 

 

人を否定しているということは

自分のどこかを否定していることなのです。

 

 

 

何よりも自分のことを

何も愛していないことに気づくこと

わたしたちの覚醒を促す

第一歩となるのかもしれません。

 

 

 

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風邪をひいて

自分との対話の時間を

たくさん持ちました。

 

 

起こるべくことが起きていること

それには一切の無駄がないことを

信じてさらに進んで参りたいと思います。

 

 

 

 

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