ずっと、私には愛がないと思っていました。

目の前の人をすぐ苦手だと思って心が閉じるし
頭の中で罵詈雑言、毒吐くことあるし
(あ、でも前より減った)
人を見下す、決めつける、押しつける
疑う、どうでもいいと思う

ありとあらゆる「愛」とはかけ離れた想いがあり
態度を取り、選択をする。



この世にあるものは全て愛でできている
光でできている

頭ではわかるけど、こんな黒くてドロドロで
嫌な感じがするものが愛である訳がない

そんなものでいっぱいの私に愛がある訳がない。
少なくとも自分には全く見えない。

そう思っていたのですが
違うかもしれない。

多分、見えないだけなんじゃないかな。
愛の周りにいろんなものが積み重なって
見えなくなって
ときには変形して変質したけど
周りを溶かして剥がして洗ったら
中から出てくるのは愛なんじゃないかな。


もし、なんかの理由で
1ヶ月くらい台所のシンクいっぱいの洗い物を放置したとして
私がやらない間も誰もやらずに
生ゴミはそのまま、食器についた汚れはこびりついていったとしたら
もうそれは腐って手もつけたくなくなるだろう。

多分、私の中はこんなんじゃないかな。

あぁ、放置してたな、洗ってないなって思って
洗おうって決めて
水に浸けて、汚れを緩めて
洗って落として
大きな鍋とか食器がなくなって

シンクにこびりついた汚れを落として
もとは食べ物だった生ゴミの中に見つけた
シンクに落としてしまってた、ゴミではなかったイチゴみたいな

私の愛はそんなレベルで
隠れてみえなくなってしまっていて
でも確かにあるものかもしれない。

抑えきれない殺意に似た怒りは
受け入れられなかった悲しみを隠していて
受け入れられなかった悲しみ、失望は
受け入れてもらえるかも知れないという期待を隠していて
その下には受け取ってほしいと差し出したものがあって
それを差し出したところには自分の想いや存在そのものがあって

多分、この辺りでもう「イチゴ」であって、愛なんだけど
自分が意識を持っている、想いを抱ける状態で存在している時点で愛されているということだろうし
愛であるということなんだろうなと。思って。


イチゴなんか、食べられるんだから、愛だなと思うし
イチゴを隠してた生ゴミも、もとは食べ物で愛だ。
変質、変形した愛。

素直な気持ちを愛でイチゴだとしたら
それを隠した腐った人参の皮は
怒られたら悲しいなっていう気持ちとか
受け入れてもらえるかなって不安とか

拗ねて腐らせて、
うまくいかないショックが食器になって積み重なって不安が怒りに変わって。。。

手もつけたくない洗いものいっぱいのシンクになって
それはイチゴも見えないな。

今度、怒りが湧いてきてぶつけたくなったら、
はっ、私が今、ぶん投げようとしているのは
カレーのこびりついた鍋だわ!と思って

何が嫌だったのかと問いながらカレーを落とし
本当はどうしたかったのかと問いながらお皿を洗い
拗れさせたのは何が怖かったからかと問いながらスプーンを洗い
どんな前提があるから怖がるのかと問いながら生ゴミを整理して
それは本当なのかと問いながらイチゴを探そうかな。