少し前に、お金のこと書きますとか書いておいて

全然書けてないし

続き書きますとか書いて書けないことも多分いっぱいあって

 

そうやって、やりますと言ってできてないことがいっぱいあって

人との約束を反故にして、自分との約束を反故にして

未消化のものと罪悪感で

重たいものがいっぱいになって生きている感じがします。

 

そして容量がいっぱいになって新しいことが入ってこなくて

処理し切れないから新しいことが目の前に来ることが怖くて

 

断捨離というのはこういうときに必要なものなのでしょう。

 

 

身体のバイオリズム的に、昨日は一か月の中で恐らくいちばん不安定な日で

久々に、自分が大嫌いで仕方がなくなりました。

 

ここ数カ月くらいは、自分のことを受け入れられることができるようになったかなぁとか

思っていたのですが

 

少し前、整体に近い施術を受けたときには

「生きているのが恥ずかしい」という気持ちが久々に出てきて

 

昨日は、「なんで自分はこんななんだろう」と思った。

 

直感だけで生きる人

理論が必要な人

答えを一瞬で、理由もなく出す人

ゆっくり考えて出す人

現実化をする人

理想を生きる人

しっかり支える人

表に立つ人

 

自分を知るということは

自分が、自分以外のものではないことを知るということでもある。

 

姫が、私は農民ではないと知ること

遊牧民が、自分は同じ土地に留まってはいられないと知ること

 

自分には自分の素質があり

価値があり

能力があり、居場所があると知って

 

それは、あの人が持っているものと違うし

あの人のいる場所ではないと痛いほどにわかったときに

 

羨ましすぎて、悔しくて、悲しくて、寂しくて

何で私は私でしかないんだろうって思って

それがまた、自分を蔑んでいるってわかっているから申し訳なくて

どうしようもない気持ちになってしまった。

 

自分を愛そうとか認めようとか思っても難しいくらいに

劣等感、罪悪感、羨望、嫉妬

そういうのが噴き出してきて、抑えきれなくなって

 

自分がいなくなればいいのにと思った。

みんないなくなればいいのにと思った。

私の目の前に、羨ましがらせるみたいに存在しやがって、と

あることを知らなければ求めることすらなかったのに

目の前に出てきやがってと

言いがかり以外の何物でもない気持ちが、それでも次から次へと湧いてきて

もう、どうしようもなくて吐きそうになった。

 

自分を知るって、そんな軽いもんじゃないんじゃないかな。

本当の自分なんか、知らない方がよっぽど穏やかで平和なんじゃないかな。

 

 

 

多分、ずっと小さい頃から

「生きていることには許可がいる」という感覚があった。

 

生きていることには、誰かの許可がいる

そこにいることには、誰かの許可がいる。

そして、その許可を得るためには、何らかの条件が必要。

 

その条件とは

・できなくてはいけない

・できてはいけない

・してはいけない

・しなくてはいけない

 

 

今、思えば、根本的におかしくて矛盾しかなくて

条件があるのに、その条件が空欄みたいな

 

条件があります、その条件は「  」です。みたいな

そんなの満たせる訳がないじゃないか。

よくそんな世界で生きてたな。

そりゃあ誰といたって安心できる訳ないよね。

 

 

私は、無条件に存在していていい

 

それが、本当に腑に落ちて赦すことができるように

いずれなるといいなぁ。

 

あ、大事なのはきっと

赦します、と決めることなんです。

 

でも、赦す、愛する、決めるって

理解はできるけど、私は今、この瞬間の感覚だと

まだよくわかりません。

 

で、本当はわからなくてもいいんです。

声に出して、紙に書いて

決めればいいんです。

 

 

わかってるし、知ってるけど

でも、まだ泣きたいんだよ。

泣き終わったらやるよ。

かっこわる。