私が「不安」だと思っていたことは、実は私にとっては「安心」「安全」で
「安心」だと思っていたものは、私にとっては「危険」でした。
今までずっと、「安心」したい、自由がほしいと思っていた。
でも、その「安心」が自分にとっては「危険」だと認識されることがわかった以上、できることはひとつだ。
「安心」なんか要らん。
私は、安心なんて要りません。
安全も、要りません。
不安でいい、危険でいいから
今まで見たことのない、新しい世界が見たい。
いつもどこかで、ドキドキ、ヒヤヒヤしていていいから
新しい感覚を味わいたい。
それが「不安」だろうが「危険」だろうが
いい。どうでもいい。
そりゃそうだよね、新しいことなんだから
「不安」で「危険」で上等だ。
・・・ということにする。
した。
それ以来、ちょっと不安がよぎると
あぁ、また来たか。
そうやって安心してるんだねぇ。
と思う。
怒りも苛立ちも
あぁ、またやってるんだねぇ。
という感覚になることがあった。
そういう気持ちになったとき
実家から両親が出てきて久々に会ったのだけど
親が私に求めることが、全て
自分が理解できて、経験がある、という意味で
「安心」と「安全」の範囲にあるものなんだなぁってわかった。
私が親にやりたいと言ったことを
自分が理解できるから安心
自分が通ってきた道だから安全
このやり方が安心とか
この時期なら安全とか
そういう基準でジャッジしてたんだな。
それは確かに
子どもを危険に晒すまいという親の愛なんだけど
でも、それって、親の経験値を出ないってことでしょう。
うちの親が超天才で他の人は絶対しないような経験を数多くしているとかならまだしも
地方の堅実な公務員ですよ・・・
理解と経験の範囲・・・ものすごく狭い気がする・・・。
前は、なんでわかってくれないんだろうと思っていたし
親といる自分がすごく堅苦しい、窮屈な気持ちになる理由を理解できなくて
すごくイライラしてたけど
そうやって、親が何を基準に判断していて
その許容量がどれだけ狭いのか
その基準を、どんな想いが生み出したのかが見えてくると
なんか・・・すごく冷静に
わかってくれなくてもいいし、自分がそこから外れてもいいなと思えてくる。
前は、親が言ってくるいろいろなことを
恐らく、愛してくれてるからだろうなと思って
受け入れなくちゃいけない、
受け入れられない自分には愛も感謝もないと思っていたけど
愛があっても、感謝はしても
受け入れる必要もないなという気持ちにもなってくる。
そして不思議なことに
今までいろいろ言ってきた他人も
結局は同じように、
私の言っていること、やっていることが
その人の理解や経験を超えていて
もしくはもうちょっといろんな理由で
「不安」や「危険」に思えただけなんだな
その人の安心領域を侵そうとしているように見えたんだなと思えてきた。
結局、みんな「いつもと同じ」という意味で
安心していたくて、安全な場所にいたくて
自分だけじゃなく、他人をそこにいさせたいだけなんだなぁって思った。
なんか・・・本当はもうちょっと
すっきりわかりやすく書けたらよかったんだけど
今、そんな風に見えてきたら
自分のいつものクセでとっている態度と
意識の中で見えている世界が少しズレてるなぁって思う瞬間が多くて
なんていうか
態度は悩んでるけど、実はそんなに悩んでない、みたいな
表情は沈んでるけど
気持ちは実はそんなに落ち込んでない、とか
そういう瞬間があって、しっくりこない。
多分、もう本当はそんなに悩んでなくて
クセで、ヒマで悩んでるだけかも・・・
素直に楽しくできないのは
拗ねて、こじらせてるかも・・・
ということで
いつか、すっきりまた書きたいなと思ってます。