久々に量子論の本を読んで、やっぱりちょっと難しくてくらくらしたのだけど

ふわっとなんか大事なことが見えかけた感じがして

それを残しておきたいなぁと思った。

 

量子論ってなんですか?ってよく聞かれるのですが

私もちゃんとわかってるわけでは決してないので

今、本を読んだりしてわかってる範囲で

自分ではこう捉えてるよという話なのですが

 

学校で習った中では理科なんですけど

りんごが地面に落ちる早さだとか

てこを使ったらこの物体をどのくらいの力で持ち上げられるかだとか

そういうのは計算したらわかるんですけど

 

物質を、よーく見ていって

ちっちゃくちっちゃく見ていって

目には見えない世界までいったら

分子とか原子とかになるでしょう。

 

で、原子をつくってるクオークとかっていう

本当にちっちゃいやつになるとですね

重さとか動きとか位置とかが正確には測れなくなるんです。

 

りんごとか目に見える物体だと

重さ、動き、位置がわかるんだけど

本当にちっちゃいやつ・・・素粒子になると

「観る」とか「測る」ってこと自体が影響を与えてしまって、

観たり測ったりする前の正確な重さ、動き、位置が測れなくなるんです。

 

例えば、コップに入っている水の温度は温度計で測れるんですが

一滴より少ない量の水の温度を測ろうとしたら

温度計そのものの温度が、水の温度を変えてしまうので

正確には測れなくなる。

温度計自体の温度が水の温度に影響する、

「測る」という行為が、その温度を変えてしまうから

測る前の正確な温度はわからないんです。

コップの水なら、温度計入れたくらいじゃ

温度に影響ないから測れるんだけど。

 

同じように

りんごとか物体は重いから、別に見たからって動かないし減らないし

「だるまさん転んだ」って言って、目を離したら消えてるってこともない。

 

でも、これが

目に見えないくらいにちっちゃい素粒子の世界になると

「だるまさん転んだ」って目を離しているときの状態と

振り返って「見た」ときの状態が違うから

目を離しているときの正確な姿がわからない。

 

 

「だるまさん転んだ」って目を離しているときには空気なのに

「だ!」で振り返って見たときに、いきなりひとりの男の子がある場所に立ってる、

みたいな感じ。

 

じゃあ、「だるまさん転んだ」って言って、

見ていない状態のときどうなってるかっていうと

振りむいたときに起こる無限の可能性が空気になって漂っています。

 

男の子が別な場所に立ってる可能性も

もっと離れたところで泣いている可能性も

目の前で寝そべってる可能性も

 

見た瞬間、その場所に現れるまでは

可能性だけがふわふわしている。

 

 

実際には、素粒子は

見ていないときには「波」のようにふわふわとしていて

見た瞬間、「粒」になります。

 

見るまではどこかにいる訳じゃない、いない訳でもない

とても曖昧。

 

 

そして、形も重みもある私たちも、その素粒子の集まりでできているので

素粒子の世界に起こっていることは、私たちの世界にも起こるし

見えない世界の素粒子のことがわかってきて

今まではアヤシイとかよくわからないと思われていたものが

科学的に説明されることが多くなった。

 

最近、スピ系で意識だとか願望について書かれている本では

量子力学という言葉をよく見るようになって

意識が現実を創るプロセスだったりとか

祈りが現実を変える理由が

理論的に説明されるようになってきた。

まだ、わからないことも多いし

うまく使えているわけでもないし、でも

本当にすごいことだなぁと思いながら何冊か本を読むのだけど

難しくて読み切れないことが多い・・・。

 

それでも読むたび、いくつかは

何かが見えそうで見えないもどかしい気持ちになる部分があって

 

今日読んで思ったのは

 

私たちは毎瞬、毎瞬

ひとつの現実を生きることで

他の可能性を捨ててるんだなってこと。

 

「今の現実を自分が選んでいる」というのはよく聞いていて

心の底から納得はできていないのかもしれないけれど

そうなんだろうな、とは思ってる。

 

でも、「もし、あのときこうだったら」とか

「こうしていたら」と別の可能性があったことを思ったりとか

今、こうしている瞬間でさえも

別な可能性がいくつもあるような気がしていた。

 

 

量子論の本を読みながら

頭の中のイメージでは

見えない波になっているたくさんのふわふわした「可能性」が

一瞬で、ひとつの粒になっているのを何回も見た。

ひとつの現実が生まれるのを何回も見た。

 

いくつかの分かれ道で

止まることもできた

戻ることもできた

足早に左へもいけた

ゆっくりと前にもいけた

他にも、形にならない可能性が恐らくいくつもあった

けれど

止まらずに右へ行くという現実を選んだ瞬間に

他の全ての可能性が消えた。

 

 

「あのときこうしていれば」って今まで何回も思ったけれど

あのとき、あの現実を選んだ瞬間に

 

「こうしていれば」と思っていることも含めた他の全ての可能性が消えたんだなぁ

 

「あのとき」は「言う」か「言わない」かの2択で悩んだけど

本当は多分、気づいてないのも含めて無数の可能性があって

でも、「言わない」ことを選んだ瞬間に他は全て消えたんだ。

もう、他はないんだ。存在しないんだ。

 

そう思ったら

今まではふんわりと「ある」気がしていたんだって気づいて

なんだか、愕然とした気持ちになった。

 

 

そして今も

ひとつの現実を選び

他の全ての可能性を捨てながら生きている。

 

今を、つまらないと思った瞬間に

今、しあわせである可能性を消している。

 

今、今、今、この瞬間

私はひとつを選び、他の全てを捨てて生きている。

 

今は今の瞬間に既に過去で

今?今ってどこ?って思ったら

ちょっと呼吸が浅くなって

 

あぁ、もう消えてなくなった「他の可能性」になんか

想いを馳せている無駄な余裕はないんだよ、という気持ちになった。

 

私が私を選んだ瞬間

他の誰かになる可能性もすべて消えたのだし

 

今、しあわせだということを選べば

今、つまらないという可能性は消えるんだよ

 

今、やることを選べば

やらない可能性は消える

 

今、やめることを選んだら

やる可能性は消えたんだ。

 

でも、今は既に過去で

今の選択はいつでも選び直せる

 

過去があって今があるけれど

今の選択に過去は関係ない

 

今、一本の線の上を歩いてるんじゃなくて

多分、飛んでる。

続いてない。連続はしていない。

目の前に無数に拡がる次の選択のポイントを

選んで飛んでいってる感じ。

 

 

今までは、足元に路線図みたいなのがあるような感覚だった。多分。

ここまで歩いていた道があって

別の人生に続いたであろう分かれ道があって

他にたくさんの駅が見えてて

 

でも、違ったなー。

後ろには自分が歩いてきた一本道しかなくて

他の駅なんかなくて

 

あるはずのない、なくなった道を

見すぎてきてしまったなぁ

 

と思った。

 

 

 

いちばんの希望は

今、しあわせとか

今、あるとか

今、嬉しいこととか

今、楽しいことを選ぶと

そうじゃないことは消えるってことだな。