先日6/1に収録されたかけがわtvのロケの様子がFacebookにアップされましたのでご案内します♪


miracle相談所発祥の地である、掛川の古民家カフェ ビレッジさんでロケをさせてもらいました♪

今回のテーマは《生きる》。

ゲストにお迎えした秘密の彼(笑)と、チャネリングでやり取りした内容をお伝えしています♪

ぜひご覧下さい♪


教えて?ちゃんねる in ビレッジ(動画)
https://www.facebook.com/kakegawatv/videos/249502275616571/
https://youtu.be/wwTXyT_pmbw


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【6/1ロケ ゲストに関する情報】


※ネットや書籍などから情報収集したものを参考に、私見をまじえてまとめてあります。

(参考資料)

http://india-go.jp/who-is-buddha/
http://india-go.jp/buddha-road-01/


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ブッダの基礎知識1


ブッダとは?

ブッダは、今から2500年くらい前に生きていた人です。
ブッダというのは「悟りをひらいた者」という意味で、本名はゴータマ・シッダールタといいます
日本では「お釈迦さま」という呼び名で親しまれていますが、それはブッダがシャカ族という一族の王子さまだったことが由来となっています。

ブッダのことを知るときに、とっても大切なことは「ただひとりの人間だった」ということです。
ブッダやお釈迦さまというと「すごい人だ」「わたしたちとはちがう、特別な人だ」なんて思ってしまいそうになりますが、ひとつの命を生きていたという意味ではわたしたちとブッダは何も変わりません。
ブッダは、一生懸命自分の命を生きた人なのです。


ブッダって、何をした人?

ブッダは、「生きているすべての人が、しあわせになれる方法」をみつけた人です。
それにブッダが気づいたのは35歳のときで、インドのブッダガヤという場所でのことです。
それから80歳で亡くなるまで、旅をしながら「しあわせのヒント」をたくさんの人に伝え続けました。今でも北インドにはブッダがお説法をした場所が残っています。


ブッダの教えって何?

ブッダの教えはとてもシンプルで、「ただ、生きること」です。
あれこれ考えずに、ただただその命を生きることなのです。
「ただ生きる」のに大切なことが「自分」と「今」のふたつです。

人間は、ひとりひとつの命を持っていて、その命しか生きることができません。
どんなに大切な人でも命を交換することはできないし、誰かに憧れてもその人になることはできないのです。
ひとりひとり、その人にしか生きられない命を、ちゃんと目を反らさずにしっかりと生きましょうということ。
そして、生きているこの一瞬を大切に生きましょう。
それが、ブッダが生涯をかけて伝えたことです。


ブッダ≠仏教の人

「ブッダ=仏教をつくった人」というイメージを持っている人は多いですが、実はブッダは仏教をつくっていません。
「自分を神さまみたいに大切にすることは絶対にダメ!」「仏像もつくっちゃダメ」「わたしを崇めてはいけません」と言っていました。
ブッダはみんなと変わらない、ひとりの人間だったからです。

ブッダは、「たったひとりしかいない自分を生きなさい」と繰り返し伝えていました。
ブッダを「神さまのように崇めてはいけない」と言ったのは、人々の心に依存の気持ちが生まれてしまうからなのです。
自分をしっかり生きることから目を反らして「ブッダさま、お願いします」と祈るばかりでは、しあわせにはなれません。
大切なのは自分を生きること。きちんと生活をすることなのです。
「ブッダのために」とお供えものを持ってくる人や、人を集めようとする人たちは、ブッダの教えとは逆のことになってしまうのです。


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ブッダの基礎知識2


ブッダ、誕生!ルンビニーLumbini

ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は、シャカ族の王子さまとして生まれました。
生まれた場所は、今の国境ではネパールになります。
ブッダが生まれた場所であるネパールのルンビニLumbiniには、お母さんマヤ夫人の名前がついたお堂が建っています。

ブッダを生んですぐにお母さんは亡くなってしまったので、生みのお母さんの顔は覚えていません。
王子様として育てられたブッダですが、小さな頃から悩みやすく感じやすい子どもでした。
他の人からみたら「羨ましい」と思うような、お城の中での生活。衣食住が十分に揃っていて不自由ない暮らしをしながらも、少年ブッダはどこかスッキリせず、「お城の外の世界をみてみたい」といつも願っていました。


「みんなのしあわせ」を求めて旅にでる

外の世界が見られるのでワクワクしていましたが、実際に目の前に広がっていたのは、苦しみながら生きる人びとの姿でした。
病に苦しむ人、亡くなっていく人、悲しみに浸る人…。
命はつながっているけれど、苦しくて苦しくて仕方ない。
「生きることは、苦しみなんだ」と多くの人が思っているその様子をみて、ブッダはとてもショックを受けました。

生きることは、本当に苦しみなのだろうか?
みんなが笑顔で過ごせることはないのだろうか?

ブッダの心の中に、むくむくと志が育ってきました。
「生きているすべての人がしあわせになれる道を、みつけたい!」
そんな道が本当にあるのかどうかは、誰にもわかりません。
でも、ブッダはそれを見つけたいと願い、心を決めました。
お城を出ることにしたのです。
そのとき、ブッダには奥さんも子どももいました。
それでも、自分の心には逆らえない。
決意はかたく、ブッダはある夜すべてを捨てて、家を出ます。


苦行で道はひらける?

「みんながしあわせになる道」といっても、何をしたらみつかるのか、どこにいったらヒントがあるのかもわかりません。
ブッダはひとまず、山の方へ向かいました。
当時、聖者たちが山にこもって修行をしていると聞いたからです。
そのとき流行っていたのは、自分の体を痛めつける苦行でした。
イバラの上に座って瞑想をしたり、まったく食事をしなかったり、眠らなかったり…普通の人なら死んでしまうようなことをやって、それを経験した人だけが到達できる境地があると信じられていたのです。
素直なブッダは、修行を続けます。それでも、なかなか「これだ!」という気づきは得られず、時間はどんどん経ってしまいます。
家出をしてから6年も経ってようやくブッダは、ひとつの決断をします。
「こんな修行は意味がない。山をおりよう。」
自分の体をいくら痛めつけたところで、苦しんでいる人々がしあわせになれる方法はみつからない。
そう気づいたのです。
ガリガリにやせ細ってしまったブッダは、杖をつきながらゆっくりと山をおります。
山の下に着いたころには、疲れ果てて倒れてしまいました。

それを見つけて、牛乳でつくったおかゆを食べさせてあげたのが、スジャータという女の子でした。
今もブッダがいたブッダガヤBodhgayaから川を挟んで反対岸には、スジャータが住んでいたという村が残っています。


ついに見つけた!しあわせの道。ブッダガヤBodhgaya

スジャータのつくったお粥を食べて、元気を取り戻したブッダ。
菩提樹の木の下に座って、目を閉じて、深呼吸します。
ゆっくりと呼吸をしていると、自分も自然の一部であることに気づきました。
自然というと、自分の外にあるものと思ってしまますが、風が吹いたり水が流れたりするのと同じように、自分の中にも意識とは関係なく血液が流れ、心臓は鼓動を打っています。
「ああ、自分が生きていることも自然なことなんだなぁ。」
そんな風に思いながら気持ちよく過ごしている中で、ブッダは「ハッ!」とするのです。
ついに、見つけたのです。
生きているすべての人がしあわせになる方法を。
それは、「ただ生きること」というとてもシンプルなことでした。


伝える旅のはじまり、サルナートSarnath

「生きることこそが大切なんだ!」ひとりひとつ持っている、その命をしっかりと生きる。
当たり前なことこそが、何よりも大切なことなのだと気づきます。
生きることの大切さは、ブッダ以前にあったアーユルヴェーダなどでも語り継がれていたことなので、「見つけた」というより、あらためてその大切さに「気づいた」という方が正しいと思います。
その気づきのことを「悟り」といいます。

生きる。
ただひとりの自分を生きる。
今この一瞬を生きる。

シンプルで当たり前のことだけれど、ほとんどの人が実践できていないことです。

そして、ブッダはまた旅に出ることに決めました。
まずは、あの山の中で一緒に修行をしていた仲間のもと、サルナートへ向かったのです。
サルナートは、ブッダがはじめてお説法をした地として、今もたくさんの人が訪れます。


晩年を過ごしたラージギル・霊鷲山Rajgir

はじめてのお説法から、ブッダの伝える旅がはじまりました。
目の前にいる人たちに合わせてわかりやすいように、いろんなたとえ話をしながら「生きる」という大切なことを伝え続けるのです。
次第に、ブッダのもとにはたくさんの人が集まってくるようになりました。
村人だけでなく、王様などの地位がある人も同じようにブッダのファンになっていくのです。
霊鷲山(りょうじゅせん)という場所は、ブッダが晩年滞在していた場所です。
小高い丘の上にあって、岩が重なっている姿が、まるで鷲のようにみえます。


大切なことを伝え終え、涅槃へ。クシーナガルKushinagar

ブッダが亡くなったのは、80歳のときでした。
ブッダは、亡くなる前に何度も繰り返しいいました。
「わたしが亡くなっても、わたしを神さまのように崇めてはならない」
「わたしの像をつくってはならない」と。
これは、意外に思う方も多いかもしれませんね。
ブッダが亡くなって2500年ちかく経つ今でも、ブッダの存在はまるで神さまのように「見守っていてくれる存在」としてたくさんの方に信仰されています。
そのブッダがモデルとなってつくられた仏像も、あちこちにありますし、それを支えとして生きている人たちもたくさんいるのです。
なのに、「神のように崇めてはならない」といったのは、ブッダが伝えていたことと反対のことになってしまうからです。
ブッダが伝えたのは、誰かのためではなく「自分を生きること」。
誰かや何かに依存したり、祈り続けることよりも、しっかりと自分の生活をすることが大切だということです。
もしもブッダの像をつくって、神のように崇めてしまっては、それまでの苦しい日々と何も変わりません。
ブッダは、みんなと何もかわらない「ただひとりの人間だ」ということを何度も繰り返し伝えてきました。

そして、クシーナガル(クシナガラ / Kushinagar)という場所で最期をむかえます。
ここには、大涅槃寺Parinirvana Templeというお寺があります。
仏教ではブッダが亡くなることを「死ぬ」「亡くなる」とはいいません。
「ブッダの教えは永遠になくならない」ということで、「入滅」や「涅槃」ということばを使うのです。

ひとりの人間だったブッダですが、人々に生きる勇気や元気を与えたその存在はやっぱり大きくて、亡くなったあともずっと語り継がれ、そののちに「仏教」というブッダを大切に思う人たちの集まりが誕生しました。
ブッダが伝えたことは「原始仏教」なんていわれることもあって、それくらい人々の願いによって信仰はかたちを変えて広まっていきました。



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哲学的なお話ですが難しい内容ではありません。
むしろとても簡単です。
簡単なのですが、それが実践できている人間はごくわずか。
だからこそ、人間は人間であるということから逃げるのです。





死ぬまで人間という事実から逃げ続けて悶々したまま生きるのか。
それともその事実を受け入れて人間を謳歌して生きるのか。

皆さんのお好きなようにしてもらえればと思います♪


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Village 風の便り
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miracle相談所 総合案内版
http://ameblo.jp/miracle8738/entry-12137377724.html