【5/7テーマ《におい》に関する情報②-2】
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香りの歴史〈エジプト〉
B.C.3000年頃に建国された古代文明発祥の地であるエジプトでは、香りは主に神への捧げ物として用いられていた。薫香は悪魔払いに使われたり、病気を治療したり、性交の後にも使われた。ラテン語の“Perfume(芳香)”は“Per=through(〜を通す)”と“fume=to smoke(煙を出す)”から来ている。これからも香りの起源が、木や葉などを燃やして空に立ち上った煙とともに香りを嗅いだ薫香だということがわかる。
⑴神に薫香を捧げることの重要さ
エジプトの人々は太陽神Ra(ラー)に対し、香煙に乗って魂が天国に導かれるように祈りの儀式を捧げていた。時刻によって焚かれるものは異なっていた。朝は日の出ととものフランキンセンス(乳香)が焚かれ、正午にはミルラ(没薬)が焚かれた。また日の沈むときにはキフィ(キピともいう)と呼ばれる16種類の香りをブレンドした物で、人を寝付かせ、不安を鎮め、楽しい夢を見させたという。旧約聖書に出てくるバベルの塔では、僧侶たちが香りの山から降りてくる。香りはまず神に捧げられ、次いで僧侶、支配者が使うことを許され、続いて側近たち、そして民衆へと広がっていった。
⑵軟膏と香油
エジプトでは、香りを楽しむためだけでなく照りつける太陽による乾燥から皮膚を守るためにも、香油は大量に使われていた(入浴後に香油を付けていた)。エジプト産のユリ油が入っている「サグディ」は珍重され、「メンデシウム」と呼ばれる香油にはバラノス油(ホースラディッシュツリーの実の油)とミルラやフランキンセンスが入っていた。
エジプトの壁画で、女性が頭の上に紡錘形の帽子のような物を載せている姿を見かける。あれは、エジプト版香水ともいえる、社交場に身に着けて出かけた軟膏。この紡錘形の軟膏は動物性油脂に各種香料をブレンドしたもの。体温で少しずつ溶け、頭を伝い、体にも香りはしみ込んでいき、辺りに良い香りを漂わせた。
⑶ミイラ作り
ミイラは、死者の魂が蘇ったときに、肉体が必要であろうという思いから死体を保存したもの。ミイラの作成過程でもたくさんの香料が使われた。ミイラの語源は、現在でもアロマセラピーで用いることができる「ミルラ」だと言われている。
(ミイラ作りの手順)
①死体から脳と内臓を取り除き、パーム酒で消毒後、腹部にミルラと肉桂などの香料を詰めた。(このとき、神に捧げるフランキンセンスは用いなかった。)
②天然炭酸ソーダ(ナトロン)の粉末に70日間浸し、脱水処理をした。(内臓も同様に脱水処理をされ、壷に入れられた。)
③化粧をし、シダーウッド(殺菌、防腐)などの芳香物質に浸した何百メートルもの包帯を体に巻いた。
④花で飾り、ホルス神に祈りを捧げ、埋葬した。
⑤古書に「ラーの神の裁きの前に香料をもって薫浄された肉体をここに収め奉る」とある。芳香物質はただの殺菌・防腐のためだけでなく、神の前に出るために清らかな香りを身に付けるという意味があったと考えられる。
香りの歴史〈イスラエル〉
B.C.15からB.C.1世紀頃のイスラエルは旧約聖書の舞台。数々の香りのエピソードが綴られている。この時代も、神への捧げ物の作物や羊などに乳香などの香りが添えられていた。神と人をつなげる役割で使われていたのだろう。
⑴モーゼのエジプトからの脱出
「モーゼのエジプトからの脱出(B.C.1450年頃)」にも、香りは関わっている。
モーゼがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する場面が記載されている『出エジプト記30章』に、「主はまたモーゼに言われた。あなたは最も良い香料を取りなさい。すなわち、液状の没薬500シケル、匂い香ばしい肉桂をその半分の250シケル、ニオイショウブ250シケル、桂枝500シケル、また、オリーブの油を1ヒン(※)取りなさい。これを聖なる油を造るわざに従い、混ぜ合わせて匂い油を造らなくてはならない。これは聖なる注ぎ油である。‥‥‥」と、聖なるオイルと聖なるかおりの作り方が記されている。
※「ヒン」は当時の単位の呼称
⑵ソロモンの栄華
ソロモン王(在位B.C.960〜B.C.925年頃)のエピソード。アラビア南部のイエメンにあったシバの女王の国から、「香料の道(紅海沿いの道)」を北上したラクダの隊商によって、ソロモン王に黄金とフランキンセンスとミルラが献じられた。ここでもこの2つのかおりが好まれていたようだ。
⑶一般の人々は、香りをどう扱っていたのでしょう
「わたしは、床に美しい敷き物とエジプトのあや布を敷き、ミルラ・ろかい(アロエ)桂皮(肉桂の皮)をもって、わたしの床を匂わせました。さあ、わたしたちは、夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。」このようにイスラエルの人々は夜を演出していたようだ。
⑷キリスト誕生
キリスト誕生には、アロマセラピーに出てくる精油の名前が登場する。新約聖書のマタイの福音書2章に、東方の三使者が「母マリアのそばにいる幼子にひれ伏し、黄金(偉大な商人のシンボル)とフランキンセンス(偉大な預言者のシンボル)、ミルラ(偉大な医者のシンボル)などの貢ぎ物を捧げた」とある。そのとき、キリストはフランキンセンスを選んだと言われている。
香りの歴史〈古代ギリシャ〉
古代ギリシャのB.C.9〜B.C.4世紀頃には、その哲学、科学、文学、美術はヨーロッパ文化の重要な源として、人類の歴史に大きな影響を与えている。そんな文化・芸術の盛んだった社会で、人々は純粋な香りには人の力は及ばないと考えていた。ギリシャ神話に登場する神々は香りの雲に乗って地上に舞い降り、芳しいローブをまとっていたといわれている。ギリシャ人は死後美しい香りが満ちあふれる極楽に行くことを信じていた。
⑴エジプト・メソポタミアからの香料と香油
香油や軟膏を使うようになったのは商業が盛んになったB.C.7世紀から。特に、ギリシャ人はバラが好きだった。
①B.C.5世紀に、アテネのソロンは高価で取り引きされるバラの香油や軟膏の売買を自治安定のために禁止したが、効果はなかった。
②B.C.5世紀、ペリクレス時代(ギリシャ文化が高まった時代)には、ぶどう酒にもバラの香りが付けられるほど、バラのかおりの人気は高まっていた。
⑵高価な香りの植物についての研究
高価な香りについての科学的な研究がB.C.4世紀頃から行われている。アリストテレスの弟子のテオフラストス(B.C.370〜B.C.285年頃)が『植物史』を著している。彼はアラビアの香料について研究するために、使者をイエメンやオマーンに派遣している。そして、乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)の生育・栽培について記述している。また、その時の王アレクサンダーも香りが好きで、彼にペルシャ産の種子を送って研究を推進している(このころ軍人は強い匂いは存在感を高め、領土を広げるために役立つとして、たくさんの香油を使っていた)。
B.C.400年頃の書物では、ミントは腕に、タイムは膝に、マージョラムは髪やまつげに、シナモン、バラ、パーム油は顎や胸、アーモンド油は手足に良いとされていた。
⑶アテネの宴会での香り
宴会の時にはバラの特別な軟膏を塗り、ぶどう酒の悪酔いを避けた。もしそれが手に入らなければ、ショウブやカンショウ(甘松)の軟膏を用いたという。
⑷「医学の父」ヒポクラテス
「医学の父」ヒポクラテスは、「健康は、芳香風呂に入り、香油マッサージを毎日行うことである」と言っている。また、芳香原料を伝染病の予防として焚くことを試みていた。
香りの歴史〈古代ローマ〉
古代西洋最大の帝国である古代ローマ帝国は、B.C.7〜A.D.5世紀頃栄えた国。文学、哲学、美術ではギリシャの模倣の域を出なかったが、軍事、土木、法制では稀有の力を発揮している。ローマは、バラが生活にとても密着していた文明。バラは色々な儀式や晩餐会でまき散らかされ、宮廷の泉にはバラ水が湧き、公衆浴場までもがバラでいっぱいだった。バラの枕、バラの花飾り、バラのプリン、バラ入りのワインとさまざまな物にバラは使われた。衣類までもバラ水で洗っていたとのこと。
⑴金銀の流入と香料(B.C.1世紀頃)
古代ローマ帝国の初期はエトルリア人の文化で荒削りなものだったが、フェニキア人やギリシャ人と接触するにつれて香料の使用が増えた。B.C.27年オクタビアヌスの帝政時代を迎え、貿易も振興し、海外の領土から金銀が流入し、生活が派手になっていった。これに伴って、香料熱も高まった(町の1/4が香料店だと風刺された)。
⑵デオスコリデス(A.D.1世紀頃)の薬草医学の論文
死後1000年にわたり、西洋医学の基本的な参考書になった。現在の薬草知識もこの論文に由来している。(「マラリア・メディカ」(薬物誌))
⑶香り好きのネロ皇帝(在位A.D.54〜68年)
①豪華なバラの花の宴会
パラティネの丘に建てた黄金の宮殿では、皇帝が合図すると天井が開き、バラの花が降り、銀のパイプからバラの香りのする水がテーブルに振りかけられたとのこと。
②妻ポッペアの死
アラビアにある1年分の乳香を焚いて魂を慰め、別れを惜しんだ。
香りの歴史〈イスラム〉
5〜11世紀(西ローマ帝国が滅び、十字軍の時代)のヨーロッパは暗黒の時代と呼ばれている。ローマ時代の文化を引き継いだのはイスラム文化圏だった。
⑴イスラムの交流網
香りを東洋から西洋に運ぶ重要な役目をイスラムが担っていた。
①陸路:インド・長安(シルクロード)〜イスラム〜アフリカ・ヨーロッパ
②海路:インド・インドネシアの島、中国の東海岸地方
エチオピアからシベット、アフリカ東海岸からアンバー、インドからシナモン・コショウ・白檀(サンダルウッド)、インドネシアからクローブ・ナツメグ、インドシナから沈香、中国からムスクがそれぞれ運ばれた。
⑵女性のお清め
ソロモン王時代のユダヤにおいて、女性は、王様に会うためには「お清め」が必要だった。そしてそのために12ヶ月が要された。前半の6ヶ月はミルラの香油を用い、後半の6ヶ月はほかの何種類かの香油を用いていた。また、砂漠地帯に暮らす人々はなかなか入浴できなかったため、デオドラント剤としてミルラなどの香油を浸した布をいつも胸元に忍ばせておいた。
香りの歴史〈ヨーロッパ中世・近代〉
ヨーロッパ中世・近代(6〜17世紀)は、香り文化が成長し発展していった時代とも言える。
⑴本来の花の香り(9世紀)
古くは、動物や魚の油脂あるいはワインのベースに花を混入させ、花の香りと称していた。したがって、本来の花の香りとは異なっていた。しかし、アルコールの発見(イスラム)や蛇管と蒸留器の発明により、花本来の香りを抽出し保存することが可能になった。
⑵十字軍の遠征(10〜11世紀)
①バラ水
アラブ人のアビセンナ(980〜1036年、医者・科学者・哲学者、アウィケンナ、イブン=シーナとも)は卑金属(金以外の金属)から金を作るという錬金術の過程の一部で、バラを用いていたところ、バラから精油とバラ水が採れることを発見した。バラ水は十字軍によってヨーロッパに伝えられたが、バラ水のほかにもサンダルウッドや高価なスパイスなどが持ち帰られた。しかし、キリスト教の教えでは禁じられている誘惑物として抵抗も受けた。
②ハレム水
オリエンタル地方のスパイスやバルサムや香油。恋人たちへのおみやげになった(以降、香料の貿易を専門に行ったのがベニスの商人)。
⑶香料貿易
新大陸が発見され、香料貿易も世界規模になり、大航海時代が始まった。ヨーロッパ人は金とも価格を同じくしたというコショウをはじめ、さまざまなスパイスや薬用・芳醇な香料を探し求めた。
⑷ラベンダー水(12世紀)
12世紀、ドイツのベネディクティン派の尼僧ヒルデガルトが発明したと言われている。その後、イギリスやフランスでも作られ、特に1370年、シャルル5世は庭にラベンダーを植えさせ、自らラベンダー水を作っていたという。現在ではイギリスの香りの代表として、優雅で品のある香水として売られている。
⑸ハンガリーウォーター(ハンガリアン香水)(14世紀)
フィレンツェの修道尼マリア・クレメンティネが伝えたと言われている。ハンガリー王妃(70歳)の痛風と若返りの妙薬として知られており、その効果は隣のポーランドの国王に求婚されるほどだった。1370年にはエリザベス女王にも捧げられている。
⑹アロマセラピーの進歩(16世紀)
これまでは口で伝承されてきただけのアロマセラピーも、16世紀に入ると『新完全蒸留読本』(ドイツのエロニムス・ブラウンシュバイクという医師の著)や、『新大蒸留読本』『バレリー・コルティの薬局方』『植物読本』などの書物として体系づけられるようになった。また中国でも『本草綱目』(中国の李時珍;バラ・ジャスミン・カモミール・ハスの花)によって、アロマセラピーは体系づけられた。
⑺ロココ人形の香水ビン(17世紀)
17世紀になって、香りの抽出のためにアルコールの使用が普及すると、香水が上流階級で流行した。常時持ち歩くために小型の香水ビンが必要になり、金銀・陶磁器・ガラスで自分専用の美しく豪華なビンを名工に作らせた。やがて、あこがれの硬質の磁器が広がってゆくと、それでビンを作ることになるが、陶彫職人は人物像や動物像を作成するのが得意だったので、必然的に香水ビンも宮廷の雅やかな生活を表すロココ調人形となった。
⑻ペストの流行
イギリスでペストが流行した。ペスト患者を出した家族は皆外出が禁止され、座して死を待つしかなかった。香水を作る工場で働く人々はペストにかかりづらかったと言われている。ドイツのカルペッパーは「香水は確かに複合した薬物である。これは熱しないで、心に影響を及ぼし、あらゆる悪臭を取り除き、私たちを取り巻く空気中の感染源を除去する」と言っている。
⑼化学薬剤の使用(1650年頃)
戦争が大規模になり大量の負傷兵が出るようになると、外科手術のために化学薬剤が発達するようになった。そのため、化学薬剤を用いる医師と薬草専門家とが分離するようになった。
香りの歴史〈現代〉(18世紀〜)
現代では、香りはもっぱら香水の分野で用いられている。18〜19世紀のヨーロッパの貴族の間ではなくてはならない物だっただろう。
⑴カトリーヌ・メディチとフランス王アンリ2世の結婚
カトリーヌ・メディチは、ルネッサンスの仕掛け人とも言うべきイタリアのメディチ家の出身。メディチ家はイタリア・ルネッサンスを支えており、ミケランジェロやボッティチェリなどのスポンサーであったほかに、調香師を抱えていた。そして、メディチ家特注の香水を作らせ、衣装・化粧なども含め豪華なメディチ家独自の文化を築いていった。
フランスはヨーロッパの中でも目立たない農業国だったが、16世紀に、アンリ2世のもとへカトリーヌが嫁ぐときに、イタリア文化、ぜいたくさ、洗練さをフランスに持ち込んだので(彼女お抱えの調香師や衣装の仕立て人、料理人を連れて嫁いだ)、今やフランスは香りと料理とモードの国になっている。
⑵ポンパドール夫人とマリー・アントワネット(18世紀)
彼女たちはジャスミン・ローズ・バイオレットなどのフローラル系の香りを好んだ。ぜいたくは香りだけにとどまらず、化粧品・衣装などにも及び、財政を苦しめ、民衆の反感をかった。また、ルイ14世は、ローズウォーターとマージョラムで部屋を香らせ、衣類はクローブ、ナツメグ、アロエ、ジャスミン、オレンジウォーターで洗わせた。新しい香水が自分のために毎日作られるべきだと言っていた。
⑶4711コロン(ケルンの水;皇帝の香水)(19世紀)
1804年に皇帝についたナポレオンは大の清潔好きで、石鹸で体を洗い、オーデコロンをつけていた。このオーデコロンはドイツのケルンに住んでいたイタリア人の理髪師が考え出したもの、ナポレオンに呼び寄せられ、その一族はパリにオーデコロンの店を開いた。
⑷戦争
戦争は現代に至るまで数多く繰り広げられてきた。戦いでは多くの人が傷つく。この傷の手当てをするのに薬が必要になるわけだが、ほとんどは化学薬品が用いられていた。それとともに、手術が得意な西洋医学が信仰されるようになっていった。しかし、第二次世界大戦などではこの薬を製造することもままならず、戦士の救急キットの中に傷の手当てようにティーツリーやユーカリの精油が入っていたとも言われている。
⑸「アロマセラピー」という言葉について
有史以来、さまざまな場面で香りが用いられてきたが、「アロマセラピー」という名が生まれたのは、なんと1920年代になってからのこと。フランスの化学者ルネ=モーリス・ガットフォセが研究中に片手に火傷を負い、とっさに近くにあったラベンダーの精油にその手を浸けた。すると、火傷は悪化するどころか跡形も残らず、びっくりするような速さで治っていった。そこでガットフォセは精油について研究を始め、「アロマセラピー(芳香療法)」という言葉を作った。そしてその後もさまざまな論文を発表した。
⑹療法としてのアロマセラピー
ガットフォセのアロマセラピーについての研究を契機に、さなざまな化学論文が発表されたが、第二次世界大戦が始まるとその熱はすっかりといってよいほど冷めてしまった。こんな中で、薬用植物を治療に用いることに興味を持っていたフランスの医学博士ジャン・バルネは、大戦中に精油を戦傷の治療のために広く用いた。そして、アロマセラピーが大きな可能性を秘めた治療方法であることを知り、それ以降もさまざまな症状に精油を用いてその結果を論文で発表している。彼は1964年には『芳香療法』という本も出版している。
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香りの歴史〈エジプト〉
B.C.3000年頃に建国された古代文明発祥の地であるエジプトでは、香りは主に神への捧げ物として用いられていた。薫香は悪魔払いに使われたり、病気を治療したり、性交の後にも使われた。ラテン語の“Perfume(芳香)”は“Per=through(〜を通す)”と“fume=to smoke(煙を出す)”から来ている。これからも香りの起源が、木や葉などを燃やして空に立ち上った煙とともに香りを嗅いだ薫香だということがわかる。
⑴神に薫香を捧げることの重要さ
エジプトの人々は太陽神Ra(ラー)に対し、香煙に乗って魂が天国に導かれるように祈りの儀式を捧げていた。時刻によって焚かれるものは異なっていた。朝は日の出ととものフランキンセンス(乳香)が焚かれ、正午にはミルラ(没薬)が焚かれた。また日の沈むときにはキフィ(キピともいう)と呼ばれる16種類の香りをブレンドした物で、人を寝付かせ、不安を鎮め、楽しい夢を見させたという。旧約聖書に出てくるバベルの塔では、僧侶たちが香りの山から降りてくる。香りはまず神に捧げられ、次いで僧侶、支配者が使うことを許され、続いて側近たち、そして民衆へと広がっていった。
⑵軟膏と香油
エジプトでは、香りを楽しむためだけでなく照りつける太陽による乾燥から皮膚を守るためにも、香油は大量に使われていた(入浴後に香油を付けていた)。エジプト産のユリ油が入っている「サグディ」は珍重され、「メンデシウム」と呼ばれる香油にはバラノス油(ホースラディッシュツリーの実の油)とミルラやフランキンセンスが入っていた。
エジプトの壁画で、女性が頭の上に紡錘形の帽子のような物を載せている姿を見かける。あれは、エジプト版香水ともいえる、社交場に身に着けて出かけた軟膏。この紡錘形の軟膏は動物性油脂に各種香料をブレンドしたもの。体温で少しずつ溶け、頭を伝い、体にも香りはしみ込んでいき、辺りに良い香りを漂わせた。
⑶ミイラ作り
ミイラは、死者の魂が蘇ったときに、肉体が必要であろうという思いから死体を保存したもの。ミイラの作成過程でもたくさんの香料が使われた。ミイラの語源は、現在でもアロマセラピーで用いることができる「ミルラ」だと言われている。
(ミイラ作りの手順)
①死体から脳と内臓を取り除き、パーム酒で消毒後、腹部にミルラと肉桂などの香料を詰めた。(このとき、神に捧げるフランキンセンスは用いなかった。)
②天然炭酸ソーダ(ナトロン)の粉末に70日間浸し、脱水処理をした。(内臓も同様に脱水処理をされ、壷に入れられた。)
③化粧をし、シダーウッド(殺菌、防腐)などの芳香物質に浸した何百メートルもの包帯を体に巻いた。
④花で飾り、ホルス神に祈りを捧げ、埋葬した。
⑤古書に「ラーの神の裁きの前に香料をもって薫浄された肉体をここに収め奉る」とある。芳香物質はただの殺菌・防腐のためだけでなく、神の前に出るために清らかな香りを身に付けるという意味があったと考えられる。
香りの歴史〈イスラエル〉
B.C.15からB.C.1世紀頃のイスラエルは旧約聖書の舞台。数々の香りのエピソードが綴られている。この時代も、神への捧げ物の作物や羊などに乳香などの香りが添えられていた。神と人をつなげる役割で使われていたのだろう。
⑴モーゼのエジプトからの脱出
「モーゼのエジプトからの脱出(B.C.1450年頃)」にも、香りは関わっている。
モーゼがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する場面が記載されている『出エジプト記30章』に、「主はまたモーゼに言われた。あなたは最も良い香料を取りなさい。すなわち、液状の没薬500シケル、匂い香ばしい肉桂をその半分の250シケル、ニオイショウブ250シケル、桂枝500シケル、また、オリーブの油を1ヒン(※)取りなさい。これを聖なる油を造るわざに従い、混ぜ合わせて匂い油を造らなくてはならない。これは聖なる注ぎ油である。‥‥‥」と、聖なるオイルと聖なるかおりの作り方が記されている。
※「ヒン」は当時の単位の呼称
⑵ソロモンの栄華
ソロモン王(在位B.C.960〜B.C.925年頃)のエピソード。アラビア南部のイエメンにあったシバの女王の国から、「香料の道(紅海沿いの道)」を北上したラクダの隊商によって、ソロモン王に黄金とフランキンセンスとミルラが献じられた。ここでもこの2つのかおりが好まれていたようだ。
⑶一般の人々は、香りをどう扱っていたのでしょう
「わたしは、床に美しい敷き物とエジプトのあや布を敷き、ミルラ・ろかい(アロエ)桂皮(肉桂の皮)をもって、わたしの床を匂わせました。さあ、わたしたちは、夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。」このようにイスラエルの人々は夜を演出していたようだ。
⑷キリスト誕生
キリスト誕生には、アロマセラピーに出てくる精油の名前が登場する。新約聖書のマタイの福音書2章に、東方の三使者が「母マリアのそばにいる幼子にひれ伏し、黄金(偉大な商人のシンボル)とフランキンセンス(偉大な預言者のシンボル)、ミルラ(偉大な医者のシンボル)などの貢ぎ物を捧げた」とある。そのとき、キリストはフランキンセンスを選んだと言われている。
香りの歴史〈古代ギリシャ〉
古代ギリシャのB.C.9〜B.C.4世紀頃には、その哲学、科学、文学、美術はヨーロッパ文化の重要な源として、人類の歴史に大きな影響を与えている。そんな文化・芸術の盛んだった社会で、人々は純粋な香りには人の力は及ばないと考えていた。ギリシャ神話に登場する神々は香りの雲に乗って地上に舞い降り、芳しいローブをまとっていたといわれている。ギリシャ人は死後美しい香りが満ちあふれる極楽に行くことを信じていた。
⑴エジプト・メソポタミアからの香料と香油
香油や軟膏を使うようになったのは商業が盛んになったB.C.7世紀から。特に、ギリシャ人はバラが好きだった。
①B.C.5世紀に、アテネのソロンは高価で取り引きされるバラの香油や軟膏の売買を自治安定のために禁止したが、効果はなかった。
②B.C.5世紀、ペリクレス時代(ギリシャ文化が高まった時代)には、ぶどう酒にもバラの香りが付けられるほど、バラのかおりの人気は高まっていた。
⑵高価な香りの植物についての研究
高価な香りについての科学的な研究がB.C.4世紀頃から行われている。アリストテレスの弟子のテオフラストス(B.C.370〜B.C.285年頃)が『植物史』を著している。彼はアラビアの香料について研究するために、使者をイエメンやオマーンに派遣している。そして、乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)の生育・栽培について記述している。また、その時の王アレクサンダーも香りが好きで、彼にペルシャ産の種子を送って研究を推進している(このころ軍人は強い匂いは存在感を高め、領土を広げるために役立つとして、たくさんの香油を使っていた)。
B.C.400年頃の書物では、ミントは腕に、タイムは膝に、マージョラムは髪やまつげに、シナモン、バラ、パーム油は顎や胸、アーモンド油は手足に良いとされていた。
⑶アテネの宴会での香り
宴会の時にはバラの特別な軟膏を塗り、ぶどう酒の悪酔いを避けた。もしそれが手に入らなければ、ショウブやカンショウ(甘松)の軟膏を用いたという。
⑷「医学の父」ヒポクラテス
「医学の父」ヒポクラテスは、「健康は、芳香風呂に入り、香油マッサージを毎日行うことである」と言っている。また、芳香原料を伝染病の予防として焚くことを試みていた。
香りの歴史〈古代ローマ〉
古代西洋最大の帝国である古代ローマ帝国は、B.C.7〜A.D.5世紀頃栄えた国。文学、哲学、美術ではギリシャの模倣の域を出なかったが、軍事、土木、法制では稀有の力を発揮している。ローマは、バラが生活にとても密着していた文明。バラは色々な儀式や晩餐会でまき散らかされ、宮廷の泉にはバラ水が湧き、公衆浴場までもがバラでいっぱいだった。バラの枕、バラの花飾り、バラのプリン、バラ入りのワインとさまざまな物にバラは使われた。衣類までもバラ水で洗っていたとのこと。
⑴金銀の流入と香料(B.C.1世紀頃)
古代ローマ帝国の初期はエトルリア人の文化で荒削りなものだったが、フェニキア人やギリシャ人と接触するにつれて香料の使用が増えた。B.C.27年オクタビアヌスの帝政時代を迎え、貿易も振興し、海外の領土から金銀が流入し、生活が派手になっていった。これに伴って、香料熱も高まった(町の1/4が香料店だと風刺された)。
⑵デオスコリデス(A.D.1世紀頃)の薬草医学の論文
死後1000年にわたり、西洋医学の基本的な参考書になった。現在の薬草知識もこの論文に由来している。(「マラリア・メディカ」(薬物誌))
⑶香り好きのネロ皇帝(在位A.D.54〜68年)
①豪華なバラの花の宴会
パラティネの丘に建てた黄金の宮殿では、皇帝が合図すると天井が開き、バラの花が降り、銀のパイプからバラの香りのする水がテーブルに振りかけられたとのこと。
②妻ポッペアの死
アラビアにある1年分の乳香を焚いて魂を慰め、別れを惜しんだ。
香りの歴史〈イスラム〉
5〜11世紀(西ローマ帝国が滅び、十字軍の時代)のヨーロッパは暗黒の時代と呼ばれている。ローマ時代の文化を引き継いだのはイスラム文化圏だった。
⑴イスラムの交流網
香りを東洋から西洋に運ぶ重要な役目をイスラムが担っていた。
①陸路:インド・長安(シルクロード)〜イスラム〜アフリカ・ヨーロッパ
②海路:インド・インドネシアの島、中国の東海岸地方
エチオピアからシベット、アフリカ東海岸からアンバー、インドからシナモン・コショウ・白檀(サンダルウッド)、インドネシアからクローブ・ナツメグ、インドシナから沈香、中国からムスクがそれぞれ運ばれた。
⑵女性のお清め
ソロモン王時代のユダヤにおいて、女性は、王様に会うためには「お清め」が必要だった。そしてそのために12ヶ月が要された。前半の6ヶ月はミルラの香油を用い、後半の6ヶ月はほかの何種類かの香油を用いていた。また、砂漠地帯に暮らす人々はなかなか入浴できなかったため、デオドラント剤としてミルラなどの香油を浸した布をいつも胸元に忍ばせておいた。
香りの歴史〈ヨーロッパ中世・近代〉
ヨーロッパ中世・近代(6〜17世紀)は、香り文化が成長し発展していった時代とも言える。
⑴本来の花の香り(9世紀)
古くは、動物や魚の油脂あるいはワインのベースに花を混入させ、花の香りと称していた。したがって、本来の花の香りとは異なっていた。しかし、アルコールの発見(イスラム)や蛇管と蒸留器の発明により、花本来の香りを抽出し保存することが可能になった。
⑵十字軍の遠征(10〜11世紀)
①バラ水
アラブ人のアビセンナ(980〜1036年、医者・科学者・哲学者、アウィケンナ、イブン=シーナとも)は卑金属(金以外の金属)から金を作るという錬金術の過程の一部で、バラを用いていたところ、バラから精油とバラ水が採れることを発見した。バラ水は十字軍によってヨーロッパに伝えられたが、バラ水のほかにもサンダルウッドや高価なスパイスなどが持ち帰られた。しかし、キリスト教の教えでは禁じられている誘惑物として抵抗も受けた。
②ハレム水
オリエンタル地方のスパイスやバルサムや香油。恋人たちへのおみやげになった(以降、香料の貿易を専門に行ったのがベニスの商人)。
⑶香料貿易
新大陸が発見され、香料貿易も世界規模になり、大航海時代が始まった。ヨーロッパ人は金とも価格を同じくしたというコショウをはじめ、さまざまなスパイスや薬用・芳醇な香料を探し求めた。
⑷ラベンダー水(12世紀)
12世紀、ドイツのベネディクティン派の尼僧ヒルデガルトが発明したと言われている。その後、イギリスやフランスでも作られ、特に1370年、シャルル5世は庭にラベンダーを植えさせ、自らラベンダー水を作っていたという。現在ではイギリスの香りの代表として、優雅で品のある香水として売られている。
⑸ハンガリーウォーター(ハンガリアン香水)(14世紀)
フィレンツェの修道尼マリア・クレメンティネが伝えたと言われている。ハンガリー王妃(70歳)の痛風と若返りの妙薬として知られており、その効果は隣のポーランドの国王に求婚されるほどだった。1370年にはエリザベス女王にも捧げられている。
⑹アロマセラピーの進歩(16世紀)
これまでは口で伝承されてきただけのアロマセラピーも、16世紀に入ると『新完全蒸留読本』(ドイツのエロニムス・ブラウンシュバイクという医師の著)や、『新大蒸留読本』『バレリー・コルティの薬局方』『植物読本』などの書物として体系づけられるようになった。また中国でも『本草綱目』(中国の李時珍;バラ・ジャスミン・カモミール・ハスの花)によって、アロマセラピーは体系づけられた。
⑺ロココ人形の香水ビン(17世紀)
17世紀になって、香りの抽出のためにアルコールの使用が普及すると、香水が上流階級で流行した。常時持ち歩くために小型の香水ビンが必要になり、金銀・陶磁器・ガラスで自分専用の美しく豪華なビンを名工に作らせた。やがて、あこがれの硬質の磁器が広がってゆくと、それでビンを作ることになるが、陶彫職人は人物像や動物像を作成するのが得意だったので、必然的に香水ビンも宮廷の雅やかな生活を表すロココ調人形となった。
⑻ペストの流行
イギリスでペストが流行した。ペスト患者を出した家族は皆外出が禁止され、座して死を待つしかなかった。香水を作る工場で働く人々はペストにかかりづらかったと言われている。ドイツのカルペッパーは「香水は確かに複合した薬物である。これは熱しないで、心に影響を及ぼし、あらゆる悪臭を取り除き、私たちを取り巻く空気中の感染源を除去する」と言っている。
⑼化学薬剤の使用(1650年頃)
戦争が大規模になり大量の負傷兵が出るようになると、外科手術のために化学薬剤が発達するようになった。そのため、化学薬剤を用いる医師と薬草専門家とが分離するようになった。
香りの歴史〈現代〉(18世紀〜)
現代では、香りはもっぱら香水の分野で用いられている。18〜19世紀のヨーロッパの貴族の間ではなくてはならない物だっただろう。
⑴カトリーヌ・メディチとフランス王アンリ2世の結婚
カトリーヌ・メディチは、ルネッサンスの仕掛け人とも言うべきイタリアのメディチ家の出身。メディチ家はイタリア・ルネッサンスを支えており、ミケランジェロやボッティチェリなどのスポンサーであったほかに、調香師を抱えていた。そして、メディチ家特注の香水を作らせ、衣装・化粧なども含め豪華なメディチ家独自の文化を築いていった。
フランスはヨーロッパの中でも目立たない農業国だったが、16世紀に、アンリ2世のもとへカトリーヌが嫁ぐときに、イタリア文化、ぜいたくさ、洗練さをフランスに持ち込んだので(彼女お抱えの調香師や衣装の仕立て人、料理人を連れて嫁いだ)、今やフランスは香りと料理とモードの国になっている。
⑵ポンパドール夫人とマリー・アントワネット(18世紀)
彼女たちはジャスミン・ローズ・バイオレットなどのフローラル系の香りを好んだ。ぜいたくは香りだけにとどまらず、化粧品・衣装などにも及び、財政を苦しめ、民衆の反感をかった。また、ルイ14世は、ローズウォーターとマージョラムで部屋を香らせ、衣類はクローブ、ナツメグ、アロエ、ジャスミン、オレンジウォーターで洗わせた。新しい香水が自分のために毎日作られるべきだと言っていた。
⑶4711コロン(ケルンの水;皇帝の香水)(19世紀)
1804年に皇帝についたナポレオンは大の清潔好きで、石鹸で体を洗い、オーデコロンをつけていた。このオーデコロンはドイツのケルンに住んでいたイタリア人の理髪師が考え出したもの、ナポレオンに呼び寄せられ、その一族はパリにオーデコロンの店を開いた。
⑷戦争
戦争は現代に至るまで数多く繰り広げられてきた。戦いでは多くの人が傷つく。この傷の手当てをするのに薬が必要になるわけだが、ほとんどは化学薬品が用いられていた。それとともに、手術が得意な西洋医学が信仰されるようになっていった。しかし、第二次世界大戦などではこの薬を製造することもままならず、戦士の救急キットの中に傷の手当てようにティーツリーやユーカリの精油が入っていたとも言われている。
⑸「アロマセラピー」という言葉について
有史以来、さまざまな場面で香りが用いられてきたが、「アロマセラピー」という名が生まれたのは、なんと1920年代になってからのこと。フランスの化学者ルネ=モーリス・ガットフォセが研究中に片手に火傷を負い、とっさに近くにあったラベンダーの精油にその手を浸けた。すると、火傷は悪化するどころか跡形も残らず、びっくりするような速さで治っていった。そこでガットフォセは精油について研究を始め、「アロマセラピー(芳香療法)」という言葉を作った。そしてその後もさまざまな論文を発表した。
⑹療法としてのアロマセラピー
ガットフォセのアロマセラピーについての研究を契機に、さなざまな化学論文が発表されたが、第二次世界大戦が始まるとその熱はすっかりといってよいほど冷めてしまった。こんな中で、薬用植物を治療に用いることに興味を持っていたフランスの医学博士ジャン・バルネは、大戦中に精油を戦傷の治療のために広く用いた。そして、アロマセラピーが大きな可能性を秘めた治療方法であることを知り、それ以降もさまざまな症状に精油を用いてその結果を論文で発表している。彼は1964年には『芳香療法』という本も出版している。