先日の生命の樹講座3回目の日

私にしては珍しく頭痛やら喉が痛いやら

体調悪くて欠席しました

動画がなければ這ってでもいったが(;^ω^)

 

イベントも終わり、ようやく動画受講

 

まだ半分終えたとこだけど

自分の中にあるひっかかりに気づいたので
言葉にしておこうと思った

極めて個人の体験です

 

 

講座の中で 生きる意味 について

伊泉先生はいろんなお話をしてくださっていた

 

やっていることの結果からみるのではなく

自分を超えて遺っていってほしいと思えることを

伝えているという意味

 

結果ではなく

精神を伝えていくということ

火をたやさないということ

 

 

 

この話を聴きながら

じんわり泣けてきた

 

思い出すまま・・・

 

20代の頃、心理学の講座の中で

「なんのために生まれてきたか?」の問いに

わたしは「次の世代になにかを遺すため」

と答えていた

なにか は課題になったが

次の世代に、、ということは確かに思えていた

その後それは葛藤の種にもなるのだが・・

 

 

そして30代の頃

健康食品の仕事に携わっていた

栄養士の勉強をした私は

体づくりと食べることの大切さはすぐ理解できた

 

食の大切さを

同じ立場の家庭の食を預かる主婦に伝えていた

 

子ども達が健康の理由で夢を諦めることのない体づくり

子どもの夢をじゃますることのないよう親も体づくり

親の元を離れてもちゃんと食べるものを選択できるよう

男の子なら食を大切にする女性を選べる感性

女の子なら自分がまた食を預かる感性

その先にも受け継がれていくだろう

家庭で養われる食の感性を育てていこう

 

健康が目的ではなく

しなやかに生きるための食の大切さ

 

その価値観を共有する仲間ができることは

難しいことではなかったが

10数年、仕事としてすすめていくうえで

人間関係などの難しさを超えられず

離れてしまった

 

おそらくそれ以来抱えている、、

なんのために生きていくのか、、

なにをしても虚しさと放浪しているような感覚があって 

苦しいという感覚 

 

 

伊泉先生のお話は私にとって

この感覚を解説しているようで驚いた

 

もうどうにもならないだろうとさえ思っていたけど

終わりを受け入れられず

結果や条件に囚われて閉じこもっている

 

囚われている自分の姿がみえてきた

 
そして囚われなら自由になることはできる

この気づきは希望が持てる

 

 

 

 

タロットの理解が深まれば、、というのと

単純に漠然とした興味があって受講したのだけど

 

多面的な視点というか次元というのか、から

ぼんやりしていることの輪郭が観えてきて

自分をより知っていくような気がする

 

生命の樹講座

本当におもしろい

 

 

 

さて続きを観よう