時々、改めて自分は発達障害持ちなんだと実感することがある。
先日、仕事で上司から指示を受けたとき。
ある会議の資料をもう一度見せてほしいと言われて、自分の思いつく限りのものを持ってきた。
が、上司の要求しているものとはことごとく違っていたらしい。
私はいわゆるニュアンスを察知するのが苦手なのだ。
単に「あの会議の資料」と言われても、資料は何種類もある。
具体的に「あのタイミングで出した、あのことが書いてある資料」と言ってもらえないと、わからないのだ。
結局上司は私が持ってくる的外れな資料を見て、何となくそのときのことを思い出したようで「あ、もういい」とそっけなく私を解放した。
そんなことが続くと、「あの子は使えない」という評判が立つことになる。
それもしかたないことかと最近はあきらめている。
障害のことを話しても、私が持っている障害自体を知らない、理解できない人も多い。
そんな人に説明するだけ時間と労力の無駄だと思うようになった。
相手の言っていることを理解しようと努力はしているつもりだ。
わからないことは恥ずかしがらずに何度も聞き、何を求められているのかをできるだけ聞き出そうとする。
でも、それにも限界がある。
100メートルを20秒でしか走れない人に、12秒で走れと言われても無理なのと同じだ。
せめて19秒で走れるくらいに頑張ることしかできないのだ。
とりあえず今は、これまでに覚えた定型的な仕事をミスなくこなすことで職場に迷惑をかけないようにしようと思っている。
それが、相手にも自分にも最良の方法なんだと思う、きっと。
私が相手に物事を説明するときは、誤解されないようにできるだけ具体的に、それこそ私が聞いてもわかるように説明するようにしている。
そのせいか、同僚や友人に「私の説明はわかりやすい」と言ってもらえることが多い。
それはありがたいことだし、純粋に嬉しい。
親しい友人には障害のことは話している。
幸い私の周りにいる人は病気のことも障害のことも理解してくれている。
というか、理解してくれない人は去っていった。
仕事じゃなければ、とんちんかんなことをしても「あなたって天然だよね」「不思議ちゃんだよね」で笑って済ませられる。
理解してくれない人に理解を求めるのではなく
私のことをまるごと受け入れて、仲良くしてくれる人々を大切にして生きていこうと思う。
先日、仕事で上司から指示を受けたとき。
ある会議の資料をもう一度見せてほしいと言われて、自分の思いつく限りのものを持ってきた。
が、上司の要求しているものとはことごとく違っていたらしい。
私はいわゆるニュアンスを察知するのが苦手なのだ。
単に「あの会議の資料」と言われても、資料は何種類もある。
具体的に「あのタイミングで出した、あのことが書いてある資料」と言ってもらえないと、わからないのだ。
結局上司は私が持ってくる的外れな資料を見て、何となくそのときのことを思い出したようで「あ、もういい」とそっけなく私を解放した。
そんなことが続くと、「あの子は使えない」という評判が立つことになる。
それもしかたないことかと最近はあきらめている。
障害のことを話しても、私が持っている障害自体を知らない、理解できない人も多い。
そんな人に説明するだけ時間と労力の無駄だと思うようになった。
相手の言っていることを理解しようと努力はしているつもりだ。
わからないことは恥ずかしがらずに何度も聞き、何を求められているのかをできるだけ聞き出そうとする。
でも、それにも限界がある。
100メートルを20秒でしか走れない人に、12秒で走れと言われても無理なのと同じだ。
せめて19秒で走れるくらいに頑張ることしかできないのだ。
とりあえず今は、これまでに覚えた定型的な仕事をミスなくこなすことで職場に迷惑をかけないようにしようと思っている。
それが、相手にも自分にも最良の方法なんだと思う、きっと。
私が相手に物事を説明するときは、誤解されないようにできるだけ具体的に、それこそ私が聞いてもわかるように説明するようにしている。
そのせいか、同僚や友人に「私の説明はわかりやすい」と言ってもらえることが多い。
それはありがたいことだし、純粋に嬉しい。
親しい友人には障害のことは話している。
幸い私の周りにいる人は病気のことも障害のことも理解してくれている。
というか、理解してくれない人は去っていった。
仕事じゃなければ、とんちんかんなことをしても「あなたって天然だよね」「不思議ちゃんだよね」で笑って済ませられる。
理解してくれない人に理解を求めるのではなく
私のことをまるごと受け入れて、仲良くしてくれる人々を大切にして生きていこうと思う。