前回から、だいぶ経ってしまった。




ご無沙汰しておりました。

こんなに書かないと、いつの間にかフォロワーが減ってしまうわたしのブログ‥🙃笑


いつも読んでくださる方に、感謝感謝です。





そして前回のブログは、時間がかかったというか、なにより投稿に迷いました。


でも、

“書くことで、おのれの悲しみを癒してきた”

そんな台詞を、藤原道綱の母が言っていた場面が浮かび‥
(by『光る君へ』)

それを聞いた瞬間に、わたしも同じ思いで綴り続けた過去があることを、ふと思い出したのでした。





学校が嫌いだった15才の頃。

わたしは、毎日、毎日、日記を書いていた。
日記は、わたしの唯一無二の友であり、リセットをかけてくれるものだった。

偉くもなんともないけれど、
学校に行きたくなくても、毎日毎日、“行く”ことを選択したわたし。
我慢強くも、負けず嫌いな、孤独な戦いをしていた。



“あんな学校、行かなくてもいい”

本気でそう思ってた。

でも、“行く”ことには、わたしなりの“理由”があって。

あの時、
『義務』で、“行かなきゃならない”なんて、思っていなかった。

大人の言いなりになる気も、さらさらなかった。

だけど、
わたしはわたしのための、
“学校へ行く”という選択をした結果、
その後のわたしの人生を変える仲間と先生と出会うことになる。

それは、
行きたい高校に入る『権利』がわたしにはあって、そのチケットはちゃんと努力すれば手にできると知っていたから。

“なにかを言い訳になんてしない”

もしかしたら大人になった今のわたしよりも、15才のわたしは、バシッ!と一本筋が通っていたのかもしれない。

環境に怯えながらも、なんとか学校生活を乗り越えたわたしは、しっかりとそのチケットを手にした。

“神さまは、わたしに一生ものの高校時代を手渡してくれた”

と、今でも本当に感謝している。

でも、これも、わたしが“選択”した結果。

でも、大人になってからのわたしが、15才の少女に、
“よく頑張ってきたね”
と褒め称えてあげられたのは、もっともっと後になってからのこと。


そして、わたしはいつしか、
“義務を教えることはしたくない。でも、子どもたちのなにか励みになるようなことがしたい”
と志し、義務教育ではない領域の仕事をしてきた。

今もそれは、模索中である。





そして、親愛なる彼女の死は、今一度、“職務”について、心底考えさせられた。

“使命感”の真っ只中で亡くなるというのは、
警察官、消防士、自衛官‥
他の職種を含め、少なからずあることなのかもしれない。

そうゆうことはあるとわかっていても、
やっぱりそれって、全然“あり”なんかじゃない。

でも、だからといって、そのようなすべての仕事をリセットするなんて、できない。

それは、わたしたちの職務には“使命感”が伴い、自由に気ままに働いているわけではないから。

それが社会の人たちに、
もうちょっとでも伝われば‥
と、今は思っている。









話は外れてしまったけれど、わたしの京都への旅は、
彼女の死を悼む気持ちと、
神さまミッションと、
バチッと重なった、なんとも不思議なものでした。



彼女の死は、まったく予想していないところで起きたこと‥

なのに、わたしの人生の節目に、大きな“意味”を添えました。

彼女のことは、離れていても、ずっとずーーーっと大切な人なのは変わらないのに、なおさら、忘れられない人になってしまった。





この京都の旅では、
(実はニ年前の京都旅行でも同じようなことをしたのだけれど)
当初、“過去のわたし”を探しに行くつもりで。

おそらくだけど、

平安‥

くらいのときに、姫みたいな格好で生きていた頃があるようで。



当時はまったく関連付けていなかったけれど、
女子高生のときに「源氏物語」の分厚い本を古典の授業の前に、全部読んでしまったわたし。

いまだに前文(いずれの御時にか‥)は、暗記していて、すらすらと言える。

センター試験も、古典は満点。
いつしか負けなしの科目になった。



月日は経ち‥
あるお二人の方に、それぞれ違うタイミングで、過去世リーディングをしていただいた。

お二人とも、平安の頃のわたしの姿が浮かび上がった。

とても姿勢よく歩いていて、殿方がきてくれるかどうかも気にしていたようだ。笑

そして、わたしはそんな姿をしている“自分”を夢でみたこともあったので、なんの驚きもなかった。



おとぎ話か、はたまた‥



二年前にも、京都御所に近い“ある場所”を、ぼけーっと歩いていたら、

“あ、わたし、この場所、知ってる‥”

と、ふっとなったこともあった。








そんなこんなで、今回の旅で行く場所は、元伊勢(籠神社・眞名井神社)以外も、ある程度は決まっていた。

もちろん、紫式部のゆかりの地である。

やはりわたしは、この地にいたのかもしれない。






彼女の命日。

その日わたしは、まだ彼女を死を知る由もなく、
「光る君へ」
を見ていた。


その日の回は、

紫式部のもとに、親友の訃報の文が届く‥

という内容だったことに、石山寺へ訪れたときに、“はっ”と思い出した。



これは、“偶然”なの‥か?



ただ、わたしはここに来たことがある。

なぜだかわからないけれど、涙が出てくる。

そんな不思議な気持ちのまま、おみくじを引いた。





めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな






当時も、彼女はわたしにとって大切な人であった。

それは、たしかなこと。

そして、これからも、ずっと‥





京都の最後の最後、
いらっしゃるなんて予期しなかった弁財天様に、三千院でお会いしました。

法会も始まり、その途端、雨が降り出し‥

あざやかな紫陽花苑の手前にいらっしゃった弁財天様に手を合わせると、
悲しみを抱えたわたしを、やさしく、受け入れてくださいました。










明日もきっと、良い日だね。

わたしも。

あなたも。