大好きなgleeの第3シーズンをBSで録画してやっと見れてます。


脚本に関しては良い出来なエピソードとちょっと迷走気味なエピソードが半々?
第1シーズンの個人の趣味全開で好き放題作ってる感じが好きだったんだけど、
あれだけの人気ドラマになっちゃうと、
コンスタントに視聴率稼がなきゃいけないからと狙いすぎになってるように感じるところもあって、
それとキャストの入れ替わりに向けて試行錯誤…というか
どうにでも転ばせられるキャストとエピソードをごちゃごちゃ入れてるために
イマイチすっきりしないところもある。


ドラマの内容とリンクした歌を歌わせるのは一応変わってないけど
それも若干ゆるくなってる気がするし、
逆に歌に合わせて強引に作った感じのエピソードとかもちらほらある気がする。

そんなドラマ自体のモヤモヤを吹き飛ばすほど
キャスト達のパフォーマンスは素晴らしいけど、
キャストの魅力に依存しすぎたドラマはやっぱり長持ちしないと思うので、
間が空いてもいいから良質な作品を作って
長いこと続いてほしい。
シュー先生の定年くらいまで(笑)。


ちなみにおいらは第1シーズンからフィンくんが一番の苦手生物で
どこがいいのかさっぱりわからなかったんだけど、
第3シーズンでフィンくんのダメっぷりがパワーアップしてて
わたし的にかなり無理です(--;)。
脚本的にはああいうダメキャラが物語を回してるってのは理解してるんだけど、
単純に好みの問題としてイライラしてしまう。。



…と、今のところそんな感じです。
宝塚ネタで思い出した、
こないだCSで雪組の『ロミオとジュリエット』のジュリエット役代わりバージョンを見たんだけど、
則松…ひでえな。
見るに耐えなくて途中でやめちった。
あれはど素人だ。
音程取れてる云々の話以前に、
ジュリエットとして舞台に立つことができてない。
歌に情感を込めるもへったくれもありゃしない。
ミュージカルをミュージカルとして成立させられない、破壊的な状態。
あんなんで大抜擢って…
劇団は敢えて則松に大恥かかせたかったんじゃないかという好意的な解釈すらできてしまう(笑)。


舞台は怖いもんだよ。
そして、残酷なまでに公平だ。
宝塚は固定ファンに守られてて劇評とかも甘いだろうけど、
舞台や役の大きさに関わらず、
一度舞台に乗ったら役者の本性も実力も隠しようがない。
お金で役を買うことはできても、
観客の心からの拍手はお金では買えない。
観客が心から拍手できない舞台を作っていては興行収入が上がるはずもない。


96期の人達はどんな顔して舞台に上がる気だろうね。
私だったら恥ずかしくて二度と上がれないけど。
タカラヅカニュースで花組の宝塚大劇場千秋楽の図を録画でやっと見れたー。


まぁ断片的に見ただけで判断するのもなんだけど、
今回の公演はどうも…惹かれるものがないんだよなぁ。
東京公演のチケットも取ってない。
2幕物は娘と見に行くにはちょっと厳しいし(娘が飽きると思うので)。

そもそもオーシャンズ11って原作映画は見たことあるはずなんだけど、
軽薄で中身がない映画という以外何も印象がなくて。
それを2幕物?
しかもわざわざ再演?
星組だけで十分じゃないの?
という謎の演目。

しかもまゆさんはトップになって以来
クソ真面目病が重症度を増していってる感じ。
舞台…やってて楽しいのかなこの人?
宝塚って現実を忘れに行く場所のはずなのに、
現実のプレッシャーでがんじがらめな今のまゆさんを見てても
夢は見られそうもない。
頼むから早く脱皮してくれ!

そんなまゆさんの苦労をよそに
蘭ちゃんは相変わらずの未熟っぷりだし。
ただ「才能がある」ってだけではやっぱり主役は務まらんと思うで。
ダンスの実力はずば抜けてるし、
容姿も品の良さと気位の高さは娘役トップとして十分アリだと思うんだけど、
とにかく芝居が浅すぎる。
あれはセリフをなぞってるだけだ。
人生経験の浅さなのか読解力のなさなのかはわからんが…
とりあえずまゆさんも蘭ちゃんも一度稽古サボって
すみれコードぶっちぎるくらい大胆に羽目を外してきたらどうだい?
…偉そうに何様だ(苦笑)。


こんなアンチみたいなこと書きたい訳じゃねーよお。
もっと何かすこーんと爽快な花組を見たい!
もっと面白いものを持ってるはず!
だから小さくまとまってほしくない!

ごちゃごちゃ言ってるけど要はすっごい期待してるしすっごい好きなのよ、まゆさん率いる花組が。
あうー。
子供達は成長していくにつれて、
いくつかの大切なことを学ばなければならない。

一つは、自分が自分を愛する人にとってかけがえのない存在であるということ。
一つは、自分が広い世界の中でどこにでもいる平凡な存在であるということ。
もう一つは、
自分がかけがえのない存在だからといって万能ではないこと、
逆に、自分がどこにでもいる存在だからと言って
かけがえのない存在であることに少しも変わりはないこと。


健全な自己肯定感を育むには、
自分の存在の尊さと平凡さを上手く両立させることが必要だ。
自分がかけがえのない人間という意識だけでは
肥大した自我に苦しみ
時に他者との軋轢を生むことになるし、
自分なんかどこにでもいるどうでもいい存在なんだと感じているだけでは
希望を持って生き続けるのが難しくなるだろう。


私達には、「どこにでもいる平凡な人間としてただそこにいていい」という場が必要なんだと思う。
今の日本にはそれが足りない。

家の中では過剰なほどに「親にとってのかけがえのない存在」だけど、
一歩外に出たら、
何か「能力」「スキル」とやらを持っていないと存在する資格が認められない世界が待っている。
だからみんな必死に仕事をして成果を出そうとし、
より認められやすくするために資格を取り、
少しでも雇用者にとっての「かけがえのない存在」になろうとするけど、
雇用者側は常に結果を求めるばかりで、
不況で成果が下がれば平気で首を切っていく。

家庭と職場。
対照的に見えるけど、
「かけがえのない存在」であることを過剰に求められ、
平凡な存在として生きられないという意味では同じ。


たぶん昔の子沢山の時代には、
家庭でも「たくさんいる子供の一人」として存在することができたんだろう。
そしてたくさんいる子供の一人だからといって
自分がどうでもいい存在ではないということも学べたのかもしれない。

でも今の少子化の時代では親の目が行き届きすぎて
子供が親の愛情に押し潰されることはあっても
放っといてもらえることはなかなか難しい。


今どきの子育ての常識として、よく「誉めて育てろ」なんて言う。
「感情的に叱るのはよくない」とも言う。
だけど本当に必要なのは、
けなされたからと言って人間の存在価値は減らないし、
誉められたからと言って存在価値が大して増える訳でもないし、
また次にけなされたら誉められた分がチャラになる訳でもない、
ということを子供達に感じさせてあげることなんじゃないだろうか。

誰でもみんな子供だった。
最初はみんな何者でもなかった。
子供を愛するということは、
何者でもないことをそのまま愛するということだ。

大人も子供も、
大した肩書きがなくても
何も成し遂げてなくても、
生きているだけで、
ただそこにいていいんだと感じられる世の中になればいい。
そうすればきっと、もっと居心地のいい世界ができる。

みんな居場所を求めるけれど、
居場所って実は大したことじゃないんだ。
どこにでもいる平凡な人間でいていい場所、ってこと。

私は子供達に「どこにでもいる子供の一人」として存在していいと感じさせてあげたい。
そのためには、こないだ書いた記事のごとく
「子連れが基本的に迷惑がられる場所」と
「子連れしか来ない場所」の二種類だけじゃ不十分だと思う。

なので、無いなら作ればいい!ってことで
色々方策を考えてるところです(^-^)。

平家物語の祇王のくだりが好きです。

仏も昔は凡夫なり
我らもつひには仏なり
いづれも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ

だっけかな。
私の座右の銘の一つなんだけどね。

仏様は仏様になったから偉いのか。
仏様は仏様になる前から尊い人だったんじゃないのか。
どこにでもいる名もない人も、
実は仏と同じ尊い存在なんじゃないのか。
仏様が仏様だからという理由で崇め奉っても仏の道を理解したことにはならない。


道行く人、擦れ違う人の中にも仏の心を見出だしていくような生き方を私はしたい。


何か一つのことを成し遂げるだけが人生の正解じゃない。
私が求めているのはそうじゃない生き方なんだと気付く。
私がこの先何かを成し遂げたとしてもそうでなくても、
私はこの目の前の全てを愛おしんで生きていきたい。
昨日家族でピクニックに出かけた。
芝生でゴロゴロ寝転んで、
子供達を放し飼いにして、
時々追っかけ回して遊んで、
というのどかで平和な昼下がり。


芝生の向こうの方で走って子供を捕まえて抱き上げるうちの旦那がイケメンすぎる!!!

自分でもびっくりするほど胸を撃ち抜かれたお。
それこそもう、うっかり衝撃的に恋に落ちてしまう勢いで。
いやー、一目惚れの相手がうちの旦那で良かったっす。
ま、もともと一目惚れだったんだけれども。


結婚して何年も経って、
旦那の超絶端整な顔のドアップにも慣れてたけど、
意外と…遠目に見る機会はなかったかも。


やっぱりおいらは最高に好きな人と結婚したんだなー!
とじわじわ嬉しくなってしまったのでした。

この幸せに感謝!
事情の説明は省くけど、
子連れで行った会合が次回から子連れ禁止にされちゃった。

「他の人の迷惑になるから」だって。

理屈はわからなくもない。
だけど結局そうやって世の中のみんなが簡単に
「子供は迷惑だから来ちゃダメ」ってばかり言って
子供の居場所がほとんどなくなって、
子供達とお母さん達が家に追いやられてるんだと思うんだよな。

森林伐採されて餌場が減ってしょうがなく人里に降りてきて撃たれちゃう熊とかいるけど、
あれと似たような感じ?

子供とお母さんはつまり「大人社会」にとって害獣みたいなもんなんでしょうな(苦笑)。


大人の方が、子供がうるさいのが気に入らないからとかそんな理由で簡単に「来るの禁止」って言うけど、
そんなん見方を変えればただワガママを通してるだけじゃない?

ある意味スーパーで地べたに寝転がって泣き叫ぶガキよりタチ悪いぞ?
同じワガママでも大人には止める人がいないんだもん。

大人って、ワガママを通せるようになった子供ってことなのか?
違うだろ。


人間と熊が一緒に住む訳にはいかないし、
住み分けは必要だと思うよ、もちろん。
私も子連れでどこにでも行っていいとも思わないしそう主張するつもりもない。
ただ、少なくとも今の日本では
「子連れが基本的に迷惑がられる場所」と「子連れ以外来ない場所」の2種類しかないように思うし、
これは非常に問題だと思う。


熊が絶滅の危機に瀕しているのは人間が山を荒らしたせいなのに、
「今時の熊のお母さんが子育て下手なのが原因」とか言ってたら
さすがにとんちんかんだと思うでしょ?

でも人間の話になると
「今時の親はなってない」とか
平気で親の責任の話になってしまう。

社会全体として見ると、
親にだけ育てる責任を押し付けて
その他の人の多くが子供達に対する責任を放棄しているということだと私は思う。


私は子供達のことを本当に大事に思うからこそ、
親だけにすがって依存して生きるしかない人間になってほしくない。

社会のどこに行っても、色んな人がいる。
傷付けてくる人もいるけれど、手を差し伸べてくれる人もいる。
良い出逢いに感謝して、辛い出逢いから何かを学んで、
自分を信じて、世界を信じて、胸を張って生きていってほしい。
それを教えるのは、私一人じゃとても無理だ。
私は不完全な人間の一人に過ぎないんだもの。

だから私は、何度撃たれても、
子供達を連れてたくさんの人に出逢いに出かけ続けようと思う。
それが間違ってるかどうかは、私の子供達が決めること。


私の子供達はただのどこにでもいる子供のうちの二人でしかない。
私にとってはかけがえのない、最高に美しい宝物だけれど、
客観的に言ってしまえばもっと可愛い子ももっと賢い子もいくらでもいるだろう。

でもそんな条件なんか関係なく、
どこにでもいる子供のうちの二人が
たくさんの人に少しずつ愛されて可愛がられていい世の中であってほしいと私は思うし、
そういう世の中をちょっとだけ作れるのは偉い政治家様とかでも誰でもなく、
ここにいる、どこにでもいるただの主婦の私なんだと思う。

私にできることを、できる時に、できる間にやるだけだ。



現実でもフィクションでも、
人は見たいものを見たいようにしか見ない。

私は夢のある見方をしていたい。
それが現実でもフィクションでも。

「現実はこんなもんだ」っていう誰かの声に絶対に負けたりしない。


…なんて、日曜の夜のひとりごとでした。

fox238の『THE CITY』の録画消化。

オリヴィア・パレルモって最近雑誌とかでよく取り上げられてるけど、
映像で見たら性格ひどいね。
ある程度演出だとは思うけど、
それにしても表情がおブス。
顔立ちだけは超絶美人だけど目が全然笑わないし、
何かもう見てて痛々しいくらい幸せ感がない。

お金持ちで綺麗な服着てても幸せじゃなくちゃ意味がないっていうのを
綺麗事じゃなく実感させられた(笑)。

最近自分の精神状態がやや不安定だったので、
ちょっとバランスを取るために、敢えて子供達の前で自分の好きなことを優先してやってみた。
子供と一緒に遊びたくない時は「遊びたくない」と断って、
テレビも子供達の好きな番組じゃなくて
自分の好きなgleeとかダンスの録画を見てた。
自分の友達を招いて話したり、
ママ友の家に行って大人同士で話したり、
そんな感じで過ごした。

2日ほどそれを続けたら、
上の娘がとても些細なことで大泣きした。

さすがにまずかったな、と反省して

いっぱい抱っこして「大好きだよ」っていっぱい言って、
今日は「子供達といっぱい遊んであげたい」という気持ちになって
そのとおりにした。
長女はあっという間にご機嫌に戻った。
ホッとしたのもあるけど、やっぱり私は子供達の笑顔を見るのが大好きなんだ、と思った。
子供達の笑顔を犠牲にしてまでこれ以上強硬に自分の好きなことばかりする気にはなれなかった。


私がやったことは決して誉められるようなことではないのもわかってるけど、
自分の中で「底を打った」感覚はあった。
このくらいなら自分勝手やってもいいかな。
子供達がこんなふうに泣いて抵抗したら

また子供達に合わせてやりたいって自然に思うもんなんだな。という気持ちの底。

その底に触ることなく子育てしてる人は意外と多いのかもしれない。
オススメはしないけど、実際やってみたら妙な安堵感はあった。
底の方に行かないように行かないようにばかりしてると
深さがわからなくて逆に不安、みたいな感じはあったから。


どんなに「いいお母さん」を演じていても不安なのは、
それが母親側の全面的な犠牲のもとに成り立っている理想像だからだ。
その犠牲の方向が子供に向かってしまったら虐待。
一見正反対に見えるけど、
「いいお母さん」も「虐待」も

誰かの尋常じゃない犠牲の上に成り立つものという意味では極めて近い性質を持っている。

今日ふと思ったのは、
自分の「自分優先・子供後回し」の底がこれくらいだとわかったってことは、
そこから逆算して
「子供優先・自分後回し」の限界もある程度計れるかな、と。

何も天井知らずの自己犠牲を想定しなくても、
このくらいは子供達優先にしてやって、
自分も時々やりたいことやって、
みたいな感じで
折り合いをつけて共存していくことを目指せばいい。


自分は大したお母さんじゃないし
好きなこともやりたいし
時々傷付けちゃうこともあるけど、
でもやっぱりあなたのことが最高に大事で大好きなんだよ、と
子供達に伝え続けるお母さんになれたらいいのかな、なんて思います。
それが「いいお母さん」かどうかは知らないけど、
私の目指す方向はそんな感じでいいかな、と今は思っています。