翌日11月1日(金)。
朝目覚めてぼーっとしていたら、マリリンがピンクのローブ姿で2階から降りてきた。昨日と何か雰囲気が違う?…あ!髪型が違うんだ。『荒馬と女』の時みたいな無造作なダウンスタイル。
「その髪型…よく似合いますね。」
「ありがとう。これヘアコンタクトなのよ。すごいわよね、今時のカツラって。」
と言うと髪を引っ張ってみせた。どうしよう、いきなりヅラネタ振られてもリアクションに困る。
「若い頃ずっと脱色してたら抜け毛がひどくて。毎回染めるよりカツラの方が全然ラクなのよ。」
「ああそうか…元々ブルネットなんですよね。」
私がさらっと答えるとマリリンは目を丸くした。
「今どきの若い子なのにそんなことよく知ってるわね!」
「それくらいは知ってますよ。一応ファンですから。あなたの伝記本や伝記映画もたくさんあるし、今どきの若い子でもあなたに憧れる人はたくさんいるんです。スターは簡単には死なないんでしょう?」
マリリンは嬉しそうに笑ってキッチンへ引っ込むと、朝食を用意してくれた。食器は何とティファニー。さすがセレブ、死んでも優雅な生活だ。
「さあ、『ティファニーで朝食を』どうぞ!」
え?何でマリリン・モンローがオードリー・ヘプバーンの映画と関係あるの?
私がきょとんとしていると、
「あれ、本当は私の映画だったのよ。トルーマン・カポーティは私をモデルにあの小説を書いたの。だけど私がうっかり映画のオファーを断っちゃったからあんなガリガリの棒っ切れみたいな子がやることになって…」
マリリンは今でもよほど後悔しているらしく、延々と愚痴っていた。
それにしてもローブ姿のマリリンは、何だか浴衣を着ているみたいに見える。ガイジンには着物が似合わないなんて云うけれど、彼女に限っては着こなせてしまうかもしれない。細いなで肩に大きなお尻。スクリーン越しでも触れそうなほど柔らかな印象だったけど、目の前にいるこの女性はもう、子供に戻って抱っこしてもらいたくなるくらい。とんでもない事態が起こったはずなのに、マリリンがそばにいると問答無用で安心してしまう自分に少し驚く。
「ところでえっと、あの…。たくさんの言語をどうやって覚えたんですか?」
食事の話題に困って、私はおずおずと訊いてみた。自慢じゃないけど私は古い洋画だけはそれなりに見た方だと思う。だけど肝腎の英語はいまいち上達せず、受験が終わったと同時に頭からあらかた抜け落ちてしまった。あんなに頑張って勉強したのに情けない限りである。
マリリンはほんの少し小首を傾げてからこう言った。
「やっぱり恋人に教えてもらうのが一番かな。もともとフランス語は『恋をしましょう』の撮影中にイヴ・モンタンにかなり教えてもらってたし、こっちに来てからは憧れのルドルフ・ヴァレンチノにイタリア語を教えてもらったのよ。ああでもそうね、だんだん恋人に教えてもらうのがめんどくさくなって、後はほとんど独学。でも英語とドイツ語なんかはかなり似てるし、イタリア語とフランス語がだいぶわかるようになってからスペイン語とポルトガル語を勉強したら、ほとんど方言みたいな感じで、そんなに難しくはなかったわね。あんまり似てるものだから時々混ざっちゃうんだけど。」
こともなげにマリリンは言うが、そうやってやりだしたらとことんやるくせに努力の跡をおくびにも出さないから、みんな彼女の作り上げた「おバカなブロンド」というイメージに騙されちゃったんじゃないかと思う。
「日本語を勉強し始めたのはいつから?」
「日本語は…最初は2番目の夫のジョー・ディマジオと新婚旅行で日本に行った時にちょっと勉強したのよ。でも、日本語は本当に難しかったわ!日本語って英語とは物の見方が全然違うの。それがわかるまではもう、全然訳がわからなかった。」
「物の見方が違う?」どういうことだろう?
「んー…そうね。例えば英語だと誰かのことが大好きだって伝えたい場合、”I love you.” とか”I’m in love with you.”とか現在形で話すでしょ?
だけど、日本語には「ずっとあなたが好きでした」みたいな表現があって、今好きなのに過去形?どうして?って最初は混乱したの。」
言われてみれば確かに。学校の放課後校舎の裏に呼び出されて「ずっと好きでした」とか告白されて、「あっそう、昔の話なのか」と聞き流すアホはあんまりいないよな。
逆に、同窓会とかで「私○○君のことずっと好きだったんだよ」と昔憧れてた女の子に言われて勝手に勘違いする男もいるけど、あれは女子にしてみれば純粋に過去の話だしなぁ。それを同じ表現で言う日本語の機微ってのは、日本人でも難しい。
「じゃあ…、日本語と英語だと、何が現在で何が過去か、とか、そういうのが違うってことですか?」
私がほとんど当てずっぽうで訊いてみると、マリリンはふわっととろけそうな笑顔で答えた。
「そう!それもあるし…とにかく色んなことがびっくりするくらい違うのよ。
私は日本語の時の流れ方が好きでね。日本語ってほら…舟みたいにすーっと時が流れていくでしょう?何だかそれがすごく素敵に思えるの。」
日本語は舟みたいに時が流れる?いや、時間ってそういうものでしょ?英語は違うの?まるで訳がわからない。これじゃ英語どころか日本語までわからなくなりそうだ。話について行けなくなって間抜けな返事をしていると、
玄関のベルがジーっとけたたましく鳴った。
お客さん?!やばい!隠れなきゃ!私が迷い込んだことを人に知られるのはまずいだろう。
マリリンが玄関に向かうと同時に、私はキッチンに避難した。