べーしすとさんのブログで、橋下知事の体罰容認発言について
素晴らしい記事を書かれていて、
↓
何だか触発されて私も書きたくなってしまいました。
体罰、教育、人付き合いについて。
街で小さな子供とお母さん、という組み合わせを時々見かける。
時々驚いてしまうのが、お母さんの子供に対する口調。
「いいかげんにしなさい!」
「早く、こっち!」
「何やってるの?」
「いいから!」
そのお母さん達を責めるつもりは全くない。
この世知辛い日本でよくぞ頑張って一人ぼっちで子育てしていらっしゃると
心から尊敬するし、応援したいと思っている。
明日は我が身だからとてもじゃないけど批判なんて言えないです。
ただ、その、命令形。
たぶん彼女達も同じ口調で親に叱責されてきたんだろうと思う。
彼女達の子供も、親になったら同じ口調を繰り返すんだろうと思う。
それで、本当にいいんだろうか?
対等な人間関係の中では、
命令形というのは非常に慎重に使わないといけない言い方だ。
下手に人を怒らせたり悲しませたりしたくなくて、
普段からみんな言葉遣いには四苦八苦して始終気を遣っている。
子供を持つお母さん達もきっとそうだと思う。
なのに、子供に対しては平気で命令形を使えてしまうのだ。
命令形を使うのがどこか当然だと思っている。
「・・・しなさい」
「・・・してはだめ」
たぶん日本人のほとんどはそう言われて育ったはずだ。
それで、本当にいいんだろうか?
自分より年下の人間はコントロールされるべき存在なんだろうか?
自分が年上になったら当然のように人をコントロールしていいものだろうか?
話は変わるけれど、「しつけ」という言葉がある。
「躾」、と漢字で書くのとだいぶニュアンスが違う。
「しつけ」は体罰教師や子供を虐待する親が言い訳としてよく使う言葉だ。
それと、ペットがちゃんとトイレでおしっこできるように、とか。
「しつけ」は要するに、
餌をやる側が餌をもらう側を思い通りになるように調教するってことだ。
さて、少なくとも捨てられるまでは一生飼い主に甘えて生きる愛玩動物はともかくとして、
人間は大人になったら一人で自立して生きていかなければいけない。
仕事をして、配偶者を迎えて、子孫を残し、育てる生き物になっていかなければいけない。
餌をくれる人間から「しつけ」をなされた、
つまり人にコントロールされるように育てられた人間は、
どうやって自立すればいいんだ?
一人になった時、誰のコントロールを仰げばいいんだ?
その答えはつまり自分なんだけど、
自分で自分をコントロールする術を何も教わらずに、
(というかその逆を教えられてきたのに)
いきなりどうやってやればいいんだ?
彼女や奥さん、彼氏や夫にコントロールされようとする人もいる。
自分の自由を相手に丸ごと差し出して、
それと引き換えに「愛」という名の支配を受けようとする。
ちなみにこれをマゾヒズムと言います。
サディズムも結局同じことだよね。
どっちみち「支配」という枠の中でしか人間関係を規定できないわけだから。
10年くらい前はSとかMとかなんて口にするのも憚られる言葉だった。
だけど今じゃアメブロのプロフィールにも使われるくらい普及しちゃってる。
みんなが当たり前のように支配する側かされる側かを選ぶようになってる。
「自由」という選択肢はないの?
ところで、これは何かの本で読んで痛く感銘を受けたのだけど、
誰かがこんなことを言っていた。
「子供が赤ちゃんの頃、言葉が通じない時は、
親は赤ちゃんがはいはいするまで待ったでしょう?
立つことも、歩くことも、
子供が一人でできるようになるまで、待ったでしょう?
ところが言葉が通じるようになった途端に、
ああしなさい、こうしなさい、あれしちゃだめ、と指図するようになる。
親御さんにはもう一度、
はいはいするのを待っていた時の気持ちを思い出してほしいんです。」
私は、これが、「育てる」ということだと思う。
自分でできるようになるまで待つことだけが、
自分でできる力、自立する力を育てる術なんじゃないかと思う。
ところが、日本の教育は、教育の「教」ばかりが偏重されている。
上から、言葉で、教える。
読み書きとか、「教える」ことが必要な場面もあるのは事実だけど、
行き過ぎればそれはコントロール(調整?)でしかない。
ちょっとこじつけっぽいけど、
「教育」の「育」が無くなって「調」整するんじゃ、
「調教」だよね。
日本人の多くは「教育」の名のもとに「調教」をやってる、というか、
ほとんど「調教」という発想で「教育」をやってるつもりになってるんだと思う。
そういう発想が、実は
橋下知事の体罰容認発言なんかにもつながってくるんじゃないかと思うんです。
痛みを与えて思い通りにするなんて、まさに調教でしょ。
愛情があったとしても・・・と、この辺の問題は確かに難しいけれど。
個人的には、動物的な本能として痛みは怒りと恨みを産むと思うし、
そしてその怒りを押し込めて無気力になるところに服従が発生するような気がするので、
長期的に見て体罰はあまり良い方法には思えないなー。
人の心に不発弾を埋め込むようなものだと思う。
それと、子供を「調教」される存在として扱うか「教育」される存在として扱うかで、
学校の果たすべき役割もだいぶ変わってくると思うんです。
学校が「しつけ」をするための場所だと思っている人もいるようだけど、
学校が「人の言うことを聞くいい子を生産する工場」であるうちは
確かに学校はしつけのための場所に違いない。
いわゆる「しつけ」に限らず、肝腎のお勉強だって、
言われた通りに宿題をやってテストでいい点取る子が「いい子」っていう発想でもって、
コントロールされやすい(=自立できない)人間が評価され、
服従しない人間(マトモな神経の持ち主)が問題児扱いされる。
その繰り返し。
自分の頭で考える知恵なんか育たない。
個人的に、日本の学校のお勉強は「学習」じゃなくて「労働」だと思ってます。
日本の子供たちは親や教師に隷属し成果を問われるだけの労働者だ。
そんなんで「学力低下」なんてちゃんちゃら可笑しいぜ。
始めっから学力もへったくれもあるもんか。
調教されてやらされてる芸なんだから。
学校が「一人で世の中に出ていく力を付けるためのトレーニングをする場所」にすることが、
色んな意味で一番必要なことだと思う。
自分の人生を一人で決めないように育てられている子供達に
自分の人生が「支配」されていることにも気付かないような教師が
暴力を振るっていいかどうかなんて、
議論したってしょうがないことでしょう。
あ、ついでに言うとモンスターペアレントの問題も、結局そこだと思うんだよな。
学校に過剰な要求を突きつけてくるのって、
子供を一人で自分の意思を持てる存在だと思ってなくて、
親が子供を支配して当然、みたいな意識があるのと関係してると思う。
で、学校が「自立するための力を付ける場所」になるためには、
政治的なことももちろん必要だけど、
子供達を学校に入れている親達がまず、意識を変えることも大切なんじゃないかと思うんだ。
子供のことを、いつか自立していく存在だとちゃんと認識するとか、
自分が支配関係に知らずに取り込まれてきたこととか、
対等な人間関係で得られる心の本当の自由さとか、
大人が、まず、気付いて変わらなきゃ。
大人が今こそ、ちゃんと育たなきゃ。
「子供達の未来が・・・」とか心配する前に、自分らの心配しようよ。
日本人は自分を大切にすることが下手くそすぎるよ。
だから鬱とか依存症とかSとかMとか変なことになるんだよ。たぶん。
大人が本気で自分を大事にして、自分を育て直してあげなきゃ。
ええと、長くなってしまい、しかもだんだんとっちらかってますが、
本日のまとめ。
日本における、年齢差別による支配意識はどげんかせんといかん!
謙遜も尊敬もほどほどに。
どんな相手に対しても
自分が自分を大事にすること、
自分の大切に思う人や物を堂々と誇ること、
それが当たり前の世の中になったらいいな、と思います。
その一環としてとりあえず私は旦那のことは堂々とノロケますよっ!
・・・いつものお粗末なオチですんませんo(_ _*)o