こないだ書いたプロフィール話のことをちょっと考えてて思ったんだけど、

今の日本、下手したら世界中、

アマチュアじゃなくてプロフェッショナル、

ジェネラリストじゃなくてスペシャリストであることが

求められ過ぎてないだろうか?

趣味とか特技とかとにかく人と違う資格やらがないと

世の中を渡っていけないみたいな風潮がどうも顕著なような気がする。

仕事に限らず趣味の世界でも

そうした傾向は最近ちょっと行き過ぎのような感がある。


前々から非常に不満に思っているのだけど、

TSUTAYAとかCDショップとかに行くと、

あまりにも細かくジャンル分けされているのにほとほとうんざりする。

自分の探している映画はアクションなのか?

アクションにしても、カーアクションだけじゃなかったし・・・。

ラブストーリーの要素もかなり濃いし、サスペンスの要素もある。

むしろホラーとか?いやいや、冒険物?

…とさんざん探し回った挙句店員に

「これどこにありますか?」と尋ねるのが常だ。

CDでも、ポップスなんだかロックなのか、ヒップホップなのか、

正直どれだっていいだろう、と思う。


優れた芸術作品というのはジャンルを簡単に飛び越えるものだ。

例えばチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は

通常「クラシック」に分類されるけど、

あれは私はジャズでロックでポップスだと思っている。

しょっぱなからあんなクライマックスなフレーズを投入しちゃうなんて

チャイコの奴すげーロックしてんじゃん、と思うし、

メロディー的にも演奏的にも

極めてジャズっぽいテイストもあるし

(おいらはアルゲリッチの超速弾きが好きだ)、

何より、あの第1楽章の最初のメロディーを誰でも一度は聞いたことが

あるくらい普及してるってことは、最高にポップだってことだ。

そんな名曲を、ちょっと昔の人が作ったっていう理由だけで

「クラシック」って分類しちゃうのは勿体無いしナンセンスだと思う。


そうそう、話は変わるようだけど、最近のテレビ録画機器の機能ってすごいらしくて、

好きなジャンルとかを登録しておくと、勝手に番組を検索して

録画しといてくれるらしいっすね。

が、しかし。

私はドラマが好きだけど、正確に言えば「面白いドラマ」が好きな訳で、

ドラマだったら何でもいいわけじゃない。

お笑いだったらなんでも笑えるほど私の笑いの沸点は低くない。

ラグビーもテニスも好きだけど、

全部の試合を網羅したいほどの熱心なファンでもない。

気が向いたときに気が向いた番組を見る、という気まぐれなスタイルが

結局私の性に合っているんだけど、

イマドキのテレビはそうはさせてくれないらしい。


録画機器の話ならまだ後で消すとかいう選択肢もあるけど、

問題は最近増えてきたスカパーやらケーブルテレビやら、

要するに有料放送の類ね。

あれに見たい番組を随分と取られて私としては非常に迷惑している。

宝塚とかテニスとか、たぶん他にも色々だけど、

気が付いたらほとんど無料放送から消えてたとか、

ほんといい加減にしてほしい。

完全にただの儲け主義じゃん。

熱心なファンはそりゃお金払ってでも見るでしょ。

でもそういう人達からお金を搾り取ろうとする根性が気に入らない。

人の弱味につけ込んでるみたいな商売だと思う。

(前に何度か書いたネタだけども

アイドルがCD出す時に初回限定盤と通常盤とで

ジャケと収録曲微妙に変えて両方買わせるやり方に似てる。)

でもって、私みたいにきまぐれだけどちょっと好き、みたいな人間は

無理矢理ハマるか、蚊帳の外に追い出されるか、どっちかしかない。

いや、有料放送の方にも言い分はあるだろうし、

有料放送にコンテンツを奪われて

ろくでもねえお笑い(?)番組とかばっかやってる地上波にも

問題は大ありだしほんとマジでしっかりしろよなんだけど、

てか、TSUTAYAでお金払ってDVD借りてる私が言うのも

自家撞着かもしれんけど、

要するに、何となく自然にいろんなジャンルに接するチャンスや

何となく興味を持つきっかけが、

昔よりも確実に減っているように感じる。


わかりやすく言うと、

売る側が、お金を払ってくれる人の方しか見なくなった。と、思う。

そのうちお金を払ってくれるかもしれない人を「育てる」という意識は

失われてしまったんだと思う。

それじゃ、文化が育つはずがねえだろ


特に映画とかの総合芸術なんかは

いかに多岐に渡る教養と経験があるかが

物語の深みに大いに影響すると思うし、

他の芸術活動でもすべてにおいて言えるのは、

「どうしてもその方法じゃなきゃダメなんだ」という必然性に於いて、

他の色んなものを蓄えた人とそうじゃない人は

説得力に物凄い差が出ると思う。


何となく歌が好きだから、くらいのぽっと出の子が現れては消えていくけど、

本当に自分の人生を色んな面や色んな要素で噛みしめて味わってきて、

やっぱりどうしても歌じゃなきゃできない表現がある、という確信を持って

歌っている人の歌は、

一朝一夕には出ない味わいがあると思う。

もちろん基本的なテクニック(音程とかリズムとか呼吸とか)ができているの

前提の話だけど。

(てか、音程もロクに取れないような奴がプロの歌手として稼いでるのって

ほんとどーかと思う。最近はそんなんばっかだけど。)


表現活動っていうのは表現するに値するものを持ってなきゃ意味がない。

むしろ、どれだけ表現せずにいられないものを持っているかが勝負、

ってとこもあると思う。

表現ってエネルギーの放出っていうか爆発なんだから、

爆発させられるだけのもんを持っとるかどうかだよ。

で、爆発に必要なエネルギーを育てるためには、

色んな事を知って、経験して、ということが絶対に欠かせない。

同じことが、表現活動を受け取る側にも言えると思う。

作品と本気になって一対一で向き合うっていうのは物凄いエネルギーが要る。

エネルギーというのは、「人間力」と置き換えてもいい。


表現活動、芸術活動を本当に支えているのは、

それを心から必要とする(可能性のある)人達だ。

そんな人達から、金を巻き上げようとするだけでは、

単純に彼らを枯渇させてしまうだけだ。

大体、見てくれる人、聞いてくれる人を金蔓扱いするなんて

失礼にもほどがある。


でも今の世の中の仕組みは、

金持ちが「大衆」からより効率的に金を巻き上げるために、

「私の趣味は●●です」やら「私は●●にハマってます」やら

言い切れてしまうわかりやすい人を生産して、

思い通りに物を売り付けて儲ける、というふうになってしまっているみたいだ。

で、だったら売り付けられる側よりは売り付ける側の方がいいだろうってことで

「好きなもの」→「仕事(プロフェッション)」にする方がいいっていう

考え方が生まれるわけで。

身も蓋もないけど、

好きであるという感情だけを持っていても意味がない。

そんなもの、食い物にされるだけで何の価値もない。

今の世の中はお金を産み出すものだけが正しくて価値があるから。


思うにプロフェッショナルとかスペシャリストというのは、

バランスの取れた生き方を捨て、

一つに特化してある意味では偏った生き方を選ぶということだ。

プロフェッショナリズムの美学というのは

その偏りの中に普遍的なものを如何に見出すかという技術(アート)なのだ。


念の為言っておくが、

私はプロフェッショナリズムを否定する気も貶める気もない。

世の中に素晴らしいプロフェッショナルな方々は大勢いらっしゃるし、

その人達のことは心から尊敬する。

ただ、間の生き方は必ずしもプロフェッショナルとかスペシャリストに

ならなければいけないわけではないと思うし、

プロとかスペシャリストになる以外の生き方を選びにくい、

そして選んでも評価されにくい世の中の仕組みというのには

やはり問題があるのではないかと思う、ということだ。

(てかごめん、結論これだけで済む話だったのに長々と書いちまって。)


こないだ、「分かつ」者ではなく「つなぐ」者として生きたい、と

書いたのと結局は同じことなんだけど、

困難でも、私は色んな事に常に興味を持ち続けていたいと思う。

新しいことに触れる度に変わっていく自分を味わいながら、

どんな表現が生まれてくるのか自分でも楽しみにしている。


皆さんも、よかったら楽しみにしててください。