人は物事に言葉で名前を付けた途端、
それが言葉で名付けたものだということを忘れてしまう。



例えば「愛とは何か」という問いがあります。
私はそれは無意味な問いだと思います。
愛とは人間のある一定の言動に人が「愛」と名付けたに過ぎないからです。

言葉があって定義があるのではなく、
物事があって言葉があてがわれていくだけなのです。

定義や概念というものは幻にすぎません。
認識されているいないに関わらず、事実はただそこに存在しているだけです。
ただの事実に名前を付け、定義やら解釈やらをするのは
人間が自らの便宜のために行っているに過ぎないことです。
人間は記憶する生き物で、
記憶を整理するためには見出し、即ち言葉が必要だから。


しかし多くの書物ではそうした大前提はまるで忘れ去られているように見えます。
特にビジネス書とかの類。
それと「哲学」のようなもの。

もちろん言葉は言葉として現れた途端に強い力を持ちます。
言霊というものは確かにあると私も思います。
しかし言葉が言霊である所以は、
言葉が物事を象徴しているところにあるはずです。
象徴ということは意味を凝縮して表すということですから、
言葉には色んな物事のパワーも凝縮されてしまうものなのです。

そんな強い力を持つものを、私達はただの道具としてしか見ていないこともあります。
さっき挙げたビジネス書なんか特に。

その行為は、世界中のその言葉に象徴される物事全てを冒涜しているに等しいのです。
彼らはいつか彼ら自身の言葉によって滅ぼされるでしょう。
それが自然の法則というものです。


私は本屋に行くと、ビジネス書のコーナーの空気がとても苦手で避けるようにしています。
理由は簡単で、
自分のやっていることの愚かさに全く無自覚な人達の言霊が渦巻いているからです。
彼らの受けるしっぺ返しのトバッチリを食らうのは御免です。


生きることは記号を掌で弄ぶことではありません。
生きるということは、肉体が存在し、呼吸し、鼓動を打っているということ。
肉体を生物の本能に従って生存させていくことです。


私はこの頭でっかちの世の中で、
ただ生きることに必死でありたいと思います。
生きることに日々しっかり触っていられる自分でありたいと思います。

たくさんの愚かなビジネス書達が叫ぶように
もしも人生に成功があるとしたら、
「自分が生きているということをしっかりと感じられる毎日であること」以外に無いと、
私は一個の生物として感じます。

特別でない一日の中で、胸の中で生きる喜びがさざ波のように息づいている。
これ以上の喜びがあるでしょうか。

言葉に支配されて操られているうちには辿り着けない安らかな境地に、今私はいます。