地下鉄。少しラッシュも収まった時間。扉前に立つ老紳士。私は斜め後ろに座っている位置関係。


扉のガラスに映る自分を見つめる老紳士。徐にサッと両手を上げゆっくりと揺らし始める。ピタリとやめた。人差し指を立てチチチ、と振る。気に入らなかったらしい。最初からやり直し。また両手を上げ、今度は慎重に全体を見回してから、再び腕をゆっくりと振り始める。


そう。老紳士にはオーケストラが見えている。周りの目は冷ややかで、オーケストラは勿論、そのご老人すらまるで見えていないかのよう。反してタクトを振るう両腕には徐々に熱がこもる。


老紳士はくるりと振り返る。両手を大きく振るい、音楽はクライマックスに達しようしているらしい。ハタと私と目が合った。私は思わずヴァイオリンを構える仕草を取りたくなった、が、目を伏せた。


私が僅かに逡巡している内にコンサートは終わった。老紳士は何事もなかったかの様に地下鉄を降りて行った。


車内には私の小さな後悔と音楽が残った。


何故私は動けなかったのだろう?私にも同じ物が見えていたのに。


つまらん人間になったものだ。