縁起もの。 | フィッシャーキングの友人

縁起もの。

いま、佐藤優さんの「獄中記」を読んでいます。仏教について書いた日があったのですが、そのなかに「縁起」についての考察がありました。

「縁起」というのは仏教用語だそうでですが、今は間違った使い方をしているのだと指摘しています。(「こいつは春から縁起がいいや」というのはその最たるものだと)。今起きていることは過去にその原因となるものがあるので、起きていることを無理やり変えようとしてもムダで、「諦め」の境地に至るのが仏教の特徴。でも、現在のことは、未来の「原因」となりうるので、過去の行動を悔やんだりくよくよせずに未来につながると思って今を誠実に行動しましょう、と。公判中の獄中で書かれたものですから説得力が違います。

話は転じて、「間違った解釈」と言われようがなんだろうが(笑)、我が家には「縁起もの」があります。ひとつは、玄関の壁に、西向きで掲げた七宝焼きの「赤富士」。


フィッシャーキングの友人-赤富士

小学校からの親友が、会社の設立と家の新築の祝いで贈ってくれました。彼女の手紙に「我らが富士山を贈ります」という表現があったのも、とても気に入っています。調べてみると、富士山が夕焼けや朝焼けで赤く染まって見えるのは、夏の7~8月の季節で、さまざまな気象条件が重ならないと観られない貴重なもので、1日のうちでも5分程度しか見られないのだとか。そんな貴重なものが観られたということで、「縁起がいい」となったのでしょうね。

もうひとつが、こちらも七宝焼きの「ふくろうの親子」。同じ友人の贈り物です。

フィッシャーキングの友人-ふくろう



こちらの「縁起」の由来は、「不苦労(苦労知らず)」などの当て字だそうですが、日本だけでなく、世界的に「縁起がいい動物」として認識されているのだそうです。こちらは階段の壁に掛けています。仲良く寄り添うふくろうの親子がとても気に入っています。

話は「縁起」に戻りますが、間違った解釈かもしれないですが、私たち日本人が、こうした自然現象や当て字のようなシャレに、自分たちに起きるよい出来事を重ね合わせる考えは、自然を支配しようとしてきた欧米の考え方とは対極にある、日本人の自然を畏れ敬う気持ちの表れなのではないかなぁと思います。例えば商売がうまくいったと。その要因は、自分ががんばったこともあるだろうけど、自分以外の大きな力がそう導いてくれたのだと感謝する気持ち。ご先祖様に感謝したり神様にも感謝したり、富士山にも手を合わせたり、感謝する対象が多くて日本人は忙しいけど(笑)。自分(人間)の力を過信しない、という点において、これは素晴らしいことだと思います。

もちろん悪い面もあって、悪いことが起きたときも、自分がな~んにもしなかったのが原因とわかっていても、何か別のもののせいにしたりするところもあるかも。運が悪かった、とか。でも、だからあっけらかんと次の挑戦ができるのかもしれないな。悩みすぎないというか。とらわれすぎないというか。

友人の贈り物を眺めながら、そんなことを考えたのでした。
まとまらない文ですみません。