昨日は6時間歩いた。
息子と連絡が取れるまで発生から約1時間。
息子に会えたのは夜10時前。
限界まで歩き続けただるさと、花粉症の異常な辛さも、テレビの報道を見れば、全くもって何て事無いと思える。
自宅は全くの無被害。
驚くほどの現状維持振りを大変不思議に思った。
テーブルの角に置いていた、飲み残した水の入ったコップさえ微動だにしていない。
…なんなんだ?これは?
無事であった安堵と駆け付けることも叶わない焦燥が同時に迫る。
異様だったと聴いた今朝の街の様子。
地元はオフィス街だが、土曜にもかかわらず人が溢れかえっている。
コンビニやスーパーには食料が全く無い異常な状態。
ファストフード店は軒並み閉店。
体の大きな中年のサラリーマンが、薬局でチョコレートをカゴにやみくもに放り込んでいる姿。
アタシは朝、昨日歩き続けている間セブンイレブンで購入したピーナツ揚げ煎餅とチョコレートを食べた。
6時間歩き続けていた間、溢れかえる人混みの中聞こえた奇声。
ぶつかり合っても何も言わないで通り過ぎる人達。
帰る手段がなくイラつき、飲み屋のビルの前で入館の制限をしているガードマンに寄って集って不満の言葉を投げつける若いサラリーマン達の様子。
パニックなのだと感じた。
アタシはそれらを見ながら、既に3時間歩き続けていた。
子供に会うまでは、どんな悪い感情にも影響されないことを繰り返し胸に言い聞かせながら歩いた。
マイナス感情の連鎖に捲き込まれている時間や余裕などアタシには無かった。
アタシは母親だから。
電話も全く繋がらず、不安が脳ミソを揺らし続けた。
その間も、笑顔を作って歩いた。
アタシに出来る唯一の防御手段と思った。
見知らぬ14駅を息子の待つ小学校まで歩く間、壊れた建物など、目につく被害は殆ど無かった。
だから、東京は取り敢えずは無事なのだと感じた。
阪神淡路大震災でアタシは思い出の全てを失った。
育った原宿の唐突な変化で、思い出の場所は全て形を変えていた。
幼い頃のアタシはもう何処にも居ない、今のアタシが居るだけなんだと知った、あの感情を思い出しながら歩いた。
怪我している人がいないか、注意を払いながら歩いたが、一人も居なかった。
それでも緊迫した人混みの中ではずっと、気は抜けなかった。
車道を当たり前の様に歩く沢山の人達。
そこを急いだバイクやトラックが走りすぎる。
危ない。
…お願いだからもっと、自分を大切にして下さい。
どうか、事故に合わないでください。
待っている家族や友人逹を悲しませないで下さい。
そのために、どうぞ最低限のルールは守って下さい…。
声になら無い声を笑顔に変えて歩いた。
孤独を感じていた。
何だか胸が悲しかった。
被災地と東京の、人の心の温度差。
アタシは何を思えば良いのだろう…。
そんな中、飲食店の看板に貼られたメッセージを見つけた。
通り過ぎてから、ハッとして振り返りもう一度読み返した。
『お食事はお出しできませんが、どうぞ当店を休憩場所としてお使いください。トイレとテレビが利用できます。』
もう、歩き始めて4時間半を過ぎていた自分にとって、そのメッセージは温かく、暖かく、光みたいに胸に刺さった。
困った人を助けたいと思える人が一人でもいる。
見知らぬ客の、我が儘な対応の可能性に怖じ気づく事無く、大切な自分の店を解放している人がいる。
奇跡と思った。
心から素晴らしいと店主に心で拍手を送った。
そして何故か孤独じゃ無いと思えた。
アタシは休まず歩き続けた。
立ち寄ったコンビニの列で交わし合った、若い女性との譲りあいの気持ち。
食材が尽きても何とか頭を使ってお腹の空いた人に、限界までお料理を提供しようと頑張り続ける、中華料理店の中国人のおかみさん。
『大丈夫だったですか?わたしとても心配していました…みんな無事でホントに良かったよ…』
そこに、温かいものは、確かにあった。
危機的だからこそ、思いやりを創り出そうとする事、それが、どれだけ世の中を救うのか。
小さな事かもしれない。
だけど大切なのは、アタシ逹がみんな仲間だと言うこと。
他人の事…と想像力を止めること無く助け合うこと。
その大切さを胸に刻んだ。
今もまだ被害は続いている。
長野に新しい地震も来た。
息子は笑っている。
アタシは、ずっとニュースを見ている。
仲間逹は様々に走り回っている。
…生きてるんだ。
生きているんだ。
平和と言うもののヒントが在ったよ。
デマなど流して混乱させるな!
政治家、働けよ!
被災地にも愛が溢れると祈りながら、アタシはずっとニュースを見ている。
生きて。
生きて。
一人でも多く
生きて。
MIO