あなたは
そこで眠れますか?

はじめに


新宿ショーの時期ということもあり、
久しぶりにエスピリトサントの話題や
まさに記事にしている内容を
耳にする機会がありました。

長くこの世界を見ていると、
時間が経ってから、
点だった話が繋がってくることがあります。

当時は意味が分からなかった言葉も、
今振り返ると、
少し違って見えることがありました。

つい先日、また整理して、
どこかで書いてみたいと思う
出来事もありました。

そして
このテーマを静かに見つめていた人が、
やはり少なくなかったのだと感じています。

少しだけ、近況報告でした。

それでは本編に入ります。

あの場で、私はひとりだけ別の場所に立っていた


このシリーズを通じて、
私はずっと、
ある感覚を言葉にできずにいました。

それらは確かにあり、
私が立ち止まった理由でした。

今までの記事で書いてきましたが
私の感じている違和感の正体は
それだけではなかったのだと思います。

それは、
私が忘れられなかったものの一つ。
あのワークの場に流れていた、
人が作っている空気です。

講師と参加者、講師、参加者の作るもの、
あの独特な空気感。

全員が、
同じ方向を向いているかのように
見えたこと。
疑問を口にする余白が、
ほとんどなかったこと。
講師の言葉が、
まるでそのまま真実として
降りてくるように受け取られていたこと。

私はあの場で、

ひとりだけ
別の場所に立っているような感覚を
持っていました。

当時は、それを
私の感受性の問題なのかもしれないと
思っていました。

でも今は、少し違うふうに見えています。

人は、安心できる物語の中で眠る


人は、何かを深く信じたとき、
そこに安心を見つけます。
居心地がいいです。

癒しとでも言えるような感覚に
陥ります。

同じ言葉を使う人たち。
同じ感覚を共有する人たち。
同じ先生を敬い、
同じ石を特別なものとして扱う人たち。

その中にいると、
自分が間違っていないように思える。

あの人もそういっている、同じだ。
自分は選ばれた側にいるように感じられる。
世界の見え方が、少しだけ特別になる。

その感覚は、
とても甘くて
あたたかいものです。

けれど、強い安心は、
ときに思考を眠らせます。

「なぜ?」と聞く前に、

そういうものなのだ。

何かを言ってしまったら
角が立つ。
波風が立つ。


説明の通りだ
そういうものなのだから、
詳しくは分からなくても
いいんだ。
と受け取ってしまう。

「本当に?」と確かめる前に、
わかる人にはわかるものなのだろう

そんなような感覚
似たような感覚は
私にもある
だからいいや
と納得してしまう。

そして
いつの間にか、
疑問を持つことそのものが、
その場にふさわしくないもののように
感じられていく。


私は
この感覚に
ずっと引っかかるものを感じていました。

あの場にあった、疑問を持ちづらい空気


私が参加したメロディ女史のセミナーや
それを発展させたワークや
その他諸々は
もちろん軍隊でも、
宗教団体でもありません。

石が好きな人たちが集まり、
学びたい、
感じたい、
受け取りたいと願っていた場でした。

そこにいた人たちの多くは、
きっと善意の人たちだったと思います。
石が好きで、
何かを知りたくて
感じたくて
共有したくて
とても純粋な気持ちと
類稀な真面目さと
あらゆる方向への優しさを持つ人が
多かった印象です。


今思い返すと
あの場には、
疑問を持ちづらくなるシステムが
いくつも重なっていたように感じます。

資格を持つ人だけが参加できること。
メロディ女史が認めたものだけが
特別であり正しく凄い力を持つ。


そして、
「感じられる人」
「受け取れる人」のように見える人が、
自然と理解の深い側として
見えやすくなること。

こうした環境では、
その場の価値観や世界観を
疑わずに受け入れやすくなっていきます。

そして気づかないうちに、
自分自身の感覚よりも、
その場で正しいとされる感覚を
優先してしまうことがあるのではないか。

現に私がそうしてしまったように。

今は、そんなふうに感じています。


実際にあの場で語られていた感想


参加者同士で体験を話す時間になると、
まるで最初から用意していたかのように、
難しい言葉や論理を使いながら、
自分が感じたことを語る方もいました。

「私はこう受け取りました」
「こういう意味でないかと思いました」

その言葉はとても流暢で、
確信に満ちているようにも見えました。

けれど私は、不思議だったのです。

あのワークの内容から、
そこまでの解釈を
取り出せるものなのだろうか。

しかも、感想を語るまでのほんの数時間で、
そこまで整理された言葉として
語れるものなのだろうか、と。

あまりにも綺麗に言語化されていく感想に、
静かな驚きを感じていました。

同時に私は、
そこには
場の空気によって
形づくられていく部分もあったのではないか?
と感じていました。

クリスタルを形而上学的な存在として捉え、
同じ講師から繰り返し学び、
同じ言葉や概念に触れ続けることの副作用


そうした環境の中では、
「何を感じたか」より先に、
「その体験をどう解釈するか」が、
静かに形づくられていくことも
あるのだと思います。


そういった空気を、
私は場の随所で感じ取っていました。

何かを言葉にしなければ。
何かを受け取ったように語らなければ。

そうしないと、
理解できていないように
見えてしまう。

そんな焦りから、
絞り出される言葉も、
少なからずあったのではないか。

そこでは、
「何を感じたか」
「何を受け取れたか」を
語ること自体が、
ある種の理解の深さとして共有されているようにも見えました。


私自身は、
スーパーセブンの産地について、
どうしても引っかかる感覚がありました。

聞いていた話と、どこか噛み合わない。
語られていることと、
実際に感じるものが一致しない。

そんな違和感や驚きが、
自分の中にずっと残っていたのです。

けれど一方で、
周囲では体験談が語られ、
「こういうワークだ」と説明されていた内容を、
皆が自然に受け取っているようにも見えました。

だから感想を求められたとき、
私は迷っていました。

自分が本当に感じたことを
どこまで言っていいのだろうか。


それなので、
メロディ女史が
なぜそこまで産地にこだわっていたのか。
その意味を受け取れた石があったからこそ
その考え方と
ズレが起きているように感じた
スーパーセブンについて
問いを向けようとしました。
けれど、その瞬間、
どこか「まだ分かっていない側」のように
受け取られてしまった感覚があったのです。

それは、
私にとって印象的な体験でした。



感受性というのは、
何かを「感じる力」だけではなく

何かに乗り切れない時、
その違和感を、
無理に捨てない力でも 
あるのかもしれない。


つまり
違和感を覚えた時に、
それを無理に
感じられない自分の問題へ
変えてしまわない力でもあるのかもしれない。

今はそう思っています。


準備ができていないという言葉


疑問を持つこと自体が、
「まだその人の準備ができていないから」
と受け取られてしまうことがあります。

けれど私は、
必要のないものを自分に引き寄せない感覚や、
違和感を覚える力も、
自分を守る大切な感覚なのではないか
と思うのです。

自分の意思で必要ないと
受け取っているものにも
このように頭ごなしに言われてしまえば
強制力すら感じられてしまう。


「受け取れないのは準備ができていないから」
という言葉だけで説明されてしまうと、

疑問を持つことや、
距離を置くこと、
自分の意思で選ばないことまでもが、
本人側の問題のように
受け取られてしまうことがある。

たとえそれが、
本人の意志だったとしても。

あるいは、
自分を守る感覚だったとしても。

声を出したり、質問をすると返ってくるよくある返答 

他にも
違和感を言葉にしようとすると、

「あなたは二元論で見ている」
「善悪でジャッジしている」
「統合視点が足りない」



そんな内容の言葉で返されることがあります。

あるいは、
出来事そのものが、

「魂の学び」
「周波数」
「高次からのメッセージ」

として回収されてしまう恐ろしさ


構造そのものへの問いが、
静かにぼかされていく。

煙に巻かれてしまい
誤魔化されてしまった
そんな気持ちになったことはありませんか?


私は、
意味や物語を
否定したいわけではない。


意味や物語を語った矢先に
現実で実際に何が起きていたのかを、
ちゃんと見つめてみたいと思っている。

私たちは、地球に生きている。
三次元という現実の世界を生きている。


だからこそ、
見えない世界を語る上でも、
まずは
「現実で何が起き、どう作用したのか」を、
確かめることから始めたいと思っています。

それはその世界の眠りだった


ひとつひとつは、
本当に小さな言葉だったのだと思います。

でも、それが繰り返され、
重なっていくうちに、
人は少しずつ、自分自身の感覚よりも、
その世界の空気を優先するようになっていく。

外の世界から客観的に見れば、
どこか不思議に見えることでも、
その場の内側にいると、
自然で、当然のことのように感じられていく。

そして時には、
外からは理解しがたいことさえ、
疑問なく受け入れられてしまう。

私は、
そこに「眠り」のようなものを感じていました。

私は、眠れなかった


あの日、私はスーパーセブンのワークの中で、
語られていたような情景を
確認することができませんでした。

美しい湖も。
特定の唯一の鉱山、1箇所から採掘、
それらは何も感じられず
別の情景があった。

言葉にされていたような体験も、

私の中には、
はっきりと、
立ち上がってくるものでは
ありませんでした。


私は別の何かを感じ取っていたのかもしれません。

ただそれは、
あの場で語られていたものとは、
少し違っていました。

当時の私は、

自分が受け取れなかったのか?
なぜだ?調べる必要がある。
と受け止めていました。

けれど、今ならこう思います。

もしかしたら私は、

ただ眠れなかっただけなのかもしれない。


場の空気に乗り切れなかった。
みんなと同じ物語の中に、
最後まで入り込むことができなかった。

自分の感覚のどこかが、
ずっと静かに抵抗していたのだと思います。

当時の私は、
それを
「受け取れない自分の問題なのか」
と考えていました。

けれど今思えば、
あの違和感にも、
意味があったのかもしれません。

石が私を試していたのか。

あるいは、
ミネラルキングダムからの挑戦状
のようなものだったのか。

あまりにも、
後になって回収されていく感覚が
多かったのです。


記録を追えば追うほど、
検証していくほど、
あのワークで私の感覚が
「ここには乗れない」と言っていた理由が、
静かに腑に落ちていきました。


それは、
失敗ではなかったのかもしれません。

眠れなかったことにも、
ちゃんと理由があったのだと思います。


私の中の感覚は、
あの場所に眠ることを選ばなかった。

今は、そんなふうに感じています。

私の感覚は、眠ることを選ばなかった



もし、
あの時の私が
心地よく眠れていたなら。

スーパーセブンの産地を調べることも、
証明書の意味を考えることも、
「唯一の鉱山」という物語を疑うことも、
なかったのかもしれません。

でも、

一度目を開けてしまうと、

もう戻れないことがあります。

後編では、
石の世界で
「本物」はどのようにつくられていくのか。

証明書、権威、
そして「感じられる人だけがわかる」という空気について、石が好きだからこそ陥りがちな点や気をつけたい点について執筆中です。

つづく


凛空澪

ここまでの内容は、シリーズとしてマガジンにまとめています。

一見バラバラに見える
証明書、産地伝説、実際の産地、商標、ワークショップ、
そして空気。

それらがどう繋がっていったのかを
自分なりに整理しながら書いています。

気になる方は、
ぜひ最初から辿ってみてください。


スーパーセブンの産地を徹底的に調べたシリーズ


この記事は、複数の関係者の証言・公開されているブログ記録・業界の流通情報をもとに個人が考察したものです。すべての主張を断定するものではなく、読者が自分自身で判断するための参考情報として書いています。