狗奴国狗古智卑狗(きくちひこ)よ、永遠なれ!!
卑弥呼の倭国と対立していたのが、狗奴国(くなこく)である。
卑弥呼の都したところ=邪馬台国については、畿内説や九州説、諸説粉粉で、結論を得ることは未だ果てしない夢であるが、この狗奴国については、おおよそ熊本から鹿児島宮崎に渡る一帯であろうという説が圧倒的である。
女王国の南に狗奴国あり。王は卑弥弓呼という男王である。その官に狗古智卑狗(きくちひこ)あり。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。倭国女王卑弥呼は、狗奴国の卑弥弓呼と素より和せず。載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている旨を説明させた。
(『魏志倭人伝』より 魅音現代文訳)
この記述を見れば、「女王国の南に狗奴国が在る」のだから、いわゆる邪馬台国は、北部九州(福岡・佐賀・大分)に在ったと考えるのが、自然であろう。
わたしには畿内論者がどうして狗奴国を熊本など南九州とするのか、よく分からない。馬も牛もいなかった当時の倭国で、奈良県大和と南九州との戦争が可能なのだろうか・・
きょうは狗古智卑狗(きくちひこ)について、述べたいと思う。
わたしは、狗奴国の本陣が在って狗古智卑狗の率いる狗奴国軍が出撃態勢を整えていた所こそ、熊本県山鹿市の方保田東原遺跡だと考えている。大作『卑弥呼物語』にも、この説で倭国とのいくさについて詳しく展開した。
すなわち、狗奴国についても具体的に記述することで、わたしは学界に活を入れたかったのである。
狗奴国軍と倭国軍との戦い
わたしは方保田東原遺跡に何度も出向いた。そして、埋蔵文化財センターで説明をいただいた。発掘された遺跡あとは現在だだっ広い空き地になっている。それでも遺跡全体の5%しか発掘が進んでいないとのこと。これは吉野ヶ里遺跡(佐賀県)よりも広大な遺跡なのである!!
この遺跡は、広大なだけでなく、出土物も息を呑むばかりの物が出てきているのである。ジョッキ型土器などの珍しい土器がおびただしいばかりか、鉄器も圧倒的に出土しているのである。その中で特に鏃(やじり)が出てきていることに注目したい。
・・・倭国の南には、ライバル狗奴国があった。私はその範囲を、現在の熊本県から鹿児島県、宮崎県に及ぶ連合国家だったと捉えて物語に書いた。王都は、免田式土器が多く出土する熊本県あさぎり町に在ったと考える。そして、軍長の狗古智卑狗は、倭国攻略の拠点を、方保田東原遺跡(熊本県山鹿市)に置いたとした。方保田東原遺跡の発掘は、まだ全域の五パーセントほどしか進んでいないとのこと。それでも、非常にめずらしい圧倒的な数量の土器が出土し、さらに鉄製の石包丁や多くの鉄鏃、鉄剣の出土を見ている。つまり、戦いのための道具を使用した数多の人々が住んでいたのだ。ということは、この地こそ狗奴国の前線基地だと言えまいか。国境を接し、卑弥呼は、いつ狗奴国が攻めてくるか、常に恐怖を感じていた。だからこそ、魏に使いを送り、皇帝のうしろだてを得て、狗奴国との戦いを何とか凌ぎきろうとしたのだ。
ちなみに、狗古智卑狗の墓は、方保田の某宗教施設内にある古墳がそうだと、私は睨んでいる・・・(卑弥呼物語~愛のうけい・物語後記より)
狗古智卑狗は、狗奴国の軍長として虎視眈々と倭国の領地侵犯の計略を図った。
それは国王卑弥弓呼(火乃彦)のかねてからの願望であった。
しかし、狗古智卑狗は悩み苦しんだ。
彼は元々倭国の一兵であって、倭国の軍長アマミツ(卑弥呼の弟)とは同じ釜のメシを食った仲なのである。
一度は、倭国との停戦条約を結んだ。
狗古智卑狗はアマミツに会う場所として大津山(熊本県南関町)を選んだ。
そして、たがいに胸の内を明かし、それぞれの王に停戦を進言したのである・・
だが、それも束の間、襲い来る寒波、不作、疫病・・・
ついに、両国は決戦へ・・
以下のあらすじは書けません。あとは『卑弥呼物語~愛のうけい』を購読されて下さい!!
わたしが狗古智卑狗の御墓だと考える方保田の古墳
今回は、以上です。次回は「卑弥呼の鏡」について。