まずは問題提起から。

 

卑弥呼と聞いて、みなさんが抱く卑弥呼像というものは、

どのようなものでしょうか。

 

まさに悲劇。

「邪馬台国論争」に完全におされ隠されて「卑弥呼」という偉人の姿を

事実にもとづいて描こうとする姿勢がなかった??

この国の起源なり、我らが祖先の大切にしてきた思想なり、政治文化なり、

共同体のありのままの姿なりが、弥生末期のあの時代に関して、外圧に押されず無我夢中で追究されてきたとは、ぼくには思えなかったのであった。

 

ぼくが知る限り、卑弥呼の生き様(生涯)を描いた作品は数えるほどしかない!

たとえば、黒岩重吾さんの『鬼道の女王卑弥呼』(1996年文藝春秋)である。

申し訳ないが、この本はわたしには難しくて(分かりづらくて)、最後まで読み切れなかった。

他に、2,3作品があるが、それらは卑弥呼の全体像を捉えているとは言い難い。

何より、魏志倭人伝との関連が薄いのである。魏志倭人伝に描かれる当時の倭人の暮らしぶりや政治経済文化の状況を捉えておらず・・

 

これがまずぼくのひっかかりとなり、書きたいと思わせる原動力となった。

 


 

 

女王国より北には、特に一大率を置いて検察する。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っていて、それは魏国中に於ける刺史の如きものである。
女王国の東、海を渡ること千余里で、また国が有り、皆、倭種である。

倭国は元々男子を王としていたが、在住七、八十年で倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経るばかり。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道を行い人々をよく惑わせた。卑弥呼は非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってからは、謁見できた者はわずかである。侍女千人がいて、自ら女王に仕えている。ただ男子一人が飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿・楼閣・城柵が厳重につくられ、常に武器を持った兵が守衛している。

正始八年(247)、王頎が帯方郡太守に着任した。倭国女王卑弥呼は、狗奴国の男王、卑弥弓呼と元より和せず。載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態である旨を説明した。王頎は、塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
卑弥呼はすでに死んでいた。冢を大きく作った。その直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人であった。

そして、また男王が立ったが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。そこで、卑弥呼の宗女、壱与(トヨか)、歳十三なるを立てて王と為すと、国中遂に治まった。張政たちは檄をもって壱与に告諭した。

 

これだけの情報でも充分、卑弥呼の生きた時代の作品が描けるでしょ。

でも、書いてこなかった・・・ 何故か・・・

そこには、政治的圧力がかかり、学閥の思惑があって、

「卑弥呼」はタブー視されてきたのではないのか!!

 

すなわち、それは古事記日本書紀に神話として登場する天照大神との関連を完全に無視した(闇に葬った)歴史学界の姿勢にあるのでは・・

ホントは分かってるんでしょ・・

アマテラスの正体が、卑弥呼だっていうことを・・

安本美典氏らが、口をすっぱくして仰っていることを、今こそ反省し、

真実は何なのか、卑弥呼の都はどこだったのか、真剣に考えたい!!

 

今回は、以上。

 

 

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