いよいよ『熊本』にスポットを当てた作品を書くことになりました。

 

われら熊本人。本(もと)が熊だったわれらが祖先。

まさか・・熊だなんて、そんな失礼な・・

何か・・熊・本って、へん・・

いやいや、いろいろ歴史を調べてみると、まさに「熊」だったのです。

われらクマ族は、まさに、まつろわぬ民・・

 

弥生時代、卑弥呼の倭国と対立した狗奴国こそ、われらが祖先の輝かしさ。

免田(今のあさぎり町)に都があって、前線基地は方保田(山鹿市方保田東原遺跡)にあったであろう。おそらく呉と関係を結び、交易をして、鉄と絹とで栄えていた。

免田式土器、数々の鉄製品、ベンガラ塗り・・

その繁栄ぶりは、倭国を圧倒するものがあったのである。

 

そして、古墳時代以降、大和王権からも睨まれ、しばしば反乱を起こした。

卑弥呼亡き後、九州は北部も南部も、小さなクニグニから成っていた。

纏向に都を置いた崇神朝は、垂仁の時に畿内を統一し、いよいよ景行王からヤマトタケル、仲哀・神功に到るヤマトの王は、自ら軍を率いて九州征伐に乗り出すのである。その理由は、もともとこの王朝は九州にルーツを持っていたからである。九州を征服せねば、大陸との交易がままならぬ事を知っていたからである。

その征服譚は、日本書紀にくわしい。

一応、ヤマトにひれふすも、九州はその後も独自の動きを見せ、独特の文化を花開かせる。すなわち、『磐井の乱』であり、『装飾古墳文化』である。

 

奈良時代以後も、中央からの支配とは一線を画して来た!われらがクマ族。

秀吉は、佐々成政を隈本に送り、検地を行うが、猛反発をくらう。

『肥後52国人一揆』にあい、隈本を制することは一筋縄では参らぬ事を、

思い知った・・ 以後、加藤清正も細川も、民の暮らしの向上に全力を挙げた。

じつは、ウチの近所で『陣内城』が発見され、国指定文化財に認定されたが、

あれは小西行長の城などではなく、甲佐を治めていた阿蘇大宮司の一派の城なんです!

そうして、『島原の乱』勃発!

自治と平和を求めた天草・島原の民は、怒りに燃えて、幕藩支配に対抗した。

悲惨なことに、多くの血が流れてしまったことは、歴史の教訓として、受けとめねばならない。

 

簡単には言うことを聞かぬぞ・・まさに『肥後もっこす』は、歴史が証明しているのでした!!

 

ぼくは 河原に下り 清き流れに身を映す

ああ あれは・・ 君の面影にまどろむ

あの流れに 今もにじむ光景

風の囁き なびく背の高き草

恋しくてたまらない 走る走る 美しい幻を追いかけ

逞しい 清清しい 可憐・・ 一輪の花のよう

あの光景は 忘られぬ

川面に映るやさしさは 今 波紋となりて

永遠の声となって 天地に響く