(前回からの続き)

 

「おはよう」 
「おはよう、清清しい朝だね」
穏やかな東風が朝焼けを切り裂き、小鳥のさえずりがふたりに朝を告げる。のどけきアパートの窓むこうに、金峰山が聳える。金峰山・・・ 熊本市民に馴染みの標高六百六十五メートル。登山することによって、果たして、ふたりの被ったWの悲劇は、解消されるのだろうか。
 朝はトーストに卵焼き。そして、登山の準備に余念が無い。パッと目をひくピンク系のTシャツと黒の木綿の長袖。下は、筋肉の揺れを抑え疲労軽減効果も期待できるライトな無地レギンス。そして、シュッとした山ジーンズ。防水性に優れた薄手のジャケットを羽織る。そして、通気性に優れたメッシュ素材のウォーターシューズを履いた。
「きまってるう、山ガール!」 「レッツ クライミング!」
 若菜も智恵美も、颯爽と、登山開始!
「必ず山頂まで登り切って、スカッと気分をさせてやる!」
「私も、フラれた憂さを晴らす為に、頑張って山頂を目指すんだ!」
アパートを出て、友人の梨央の車で、本妙寺へ。ふたり本妙寺から歩き始めて、三十分。山道から俯瞰する景色に目がゆく。視界の左手には、ビルやマンションがぎっしりと建ち並び、広告の看板は自己主張に余念が無い。乱立したビルの合間には、川が流れ、潤いは林につながる。湧き出ずる水は、喧噪をものかはとさざめき、生命の発露を促す。智恵美は、インスタ映えする景色をスマホで撮影し、微笑む。負けじと若菜もスマホでパシャリ。下方に広がる街並みが小さいから、もうかなりの標高だと理解できる。それにしても、今年の春は、暑い。まだ春の初めというに、この汗の噴き出よう。急斜面を歩いてきたから、さらに息が苦しい。
「はあっ、はあー」 「はあ、はあ、はあ・・・」
「若さだけが取り柄のはずなのに。これしきのことでくたびれて、もう歳だわ」
「智恵美、頑張ろう。頂上まで、まだ半分も来ていない」
「まだまだ、先は長いなあ・・・」
二人とも座り込み、ふくらはぎから太ももを揉みほぐし、頬を両手でぱんぱんとぶって、気合いを入れる。水筒の水をひと口飲めば、ほおーっ。見上げれば、雑木林の緑が覆って、ふたりに影をつくってくれていた。さわさわ揺れる若葉、葉緑素の濃淡、透き通る葉脈。陽光をいっぱいに浴びて、うれしそうに煌めく。
 二人は立ち上がり、歩き出す。香り立つ草花が元気で、二人の歩みを応援する。茎は今ぐんぐん水を吸い上げて、瑞々しい。土煙にも、人間の踏みつけにも負けない雑草。黄と赤の花がぽつぽつと彩りを添える。その生命力に誘われて、ひらりひらりと蝶が舞う。ああ、萌芽。啓蟄。開花・・・ 春を自慢し、躍動している。
「はあーっ、着いたあ。ここが峠の茶屋か」
「ほっ。着きましたよ。一休さん、ひと休み」
二人は、しばらく座り込んだ。立ち上がると、峠の茶屋の説明書きを読んだ。階段を上がり、ウッドハウス風の建物に入れば、食事処。「此処で昼食をいただくことにしよう」
「こんにちは」と親子連れが若菜たちに挨拶してくれた。
「こんにちは。良い天気ですね」若菜が笑顔で返した。
「良い天気ですね。熊本は良いところですね。空気はおいしいし、此処から見える景色も最高。ほんと来て良かった」
お母さんらしき女性が、気さくに話しかけてこられた。
「どちらからですか」と智恵美が訊ねると、
「青森からです」とお父さんが返される。
「遠く青森から、はるばる熊本へ。ようこそ」とふたりも笑顔になってくる。
「そう言えば、北陸や東北・北海道では、大雪での被害がテレビで報道されていましたが、そちらは大丈夫でしたか」
「ええ。ウチは何とか持ちこたえました。雪下ろしはすごく辛かったですが・・・ 」
「雪下ろし、大変だったでしょう。お怪我はありませんでしたか」
「はい。その苦労も、熊本の旅で癒やされそうです」
「いいですね、さらに、熊本を満喫していってください」
「さて、腹ごしらえといきますか」
ふたりは、青森ファミリーの隣の席に座り、お品書きを見る。躊躇なく、だご汁定食を注文。しばらく談笑していると、四角いお盆が運ばれてきた。だご汁の器は鉄鍋で、人参、牛蒡、里芋、椎茸、ねぎ、かしわなどの具材が煮込まれている。主役のだご(団子)は、やわらかそう。
「いただきまーす」 ふたりとも、だごをご飯の上に載せていただく。ひと口食べた若菜がすぐに言い放つ。
「ああっ、体に染み渡る味。たまらん。子どもの頃から好きだったんだ」
「うーん、だご汁最高! お婆ちゃんが作ってくれただご汁を思い出す」
パクパク食べながら、智恵美も応じる。
「最高!うまい! 煮干しと椎茸と鶏肉の出汁が利いて」
「うん、出汁にインパクトがあって美味しい」
「だご汁には、白ご飯が近藤マッチ、いや、失礼、ベストマッチ」
若菜お得意の駄洒落で濁したお茶が、全身を駆け抜けて、疲れを癒す。
「熊本では、ご家庭でそれぞれ独自のだご汁があるのでしょう。青森では、じゃっぱ汁やせんべい汁。それぞれの家庭の味で楽しんでます」
青森のお母さんが、ふたりの会話に入って来られた
「ああ、じゃっぱ汁やせんべい汁ですか。行ってみたいです、青森」
「熊本には、美しい地下水があります。それで、穀物や野菜や肉が育って、美味しいだご汁の食材が生まれ出るのです」
若菜がそう言うと、ふたりは、威張って立派にだご汁定食を完食した。
「ご馳走様でした」
「ありがとう。また会えるといいですね」
「では、お元気で」
 二人は、店を出た。その店の上に資料館があった。峠の茶屋資料館は、古民家の佇まい。ふたりが掲示板を見ると、夏目漱石の情報を多く掲げている。
「ようこそ、いらっしゃいました」
おじいさんの声がして、奥の襖が開いた。
「こんにちは」と声をそろえて言うと、
「峠の茶屋の説明を致しましょう。此処は、鳥越峠の茶屋と言います。金峰山の峠の茶屋は、もう一軒、野出峠の茶屋もございます。あちらは、有明海や雲仙を望む展望公園として整備されていますが、茶屋は復元されていません。漱石の名著『草枕』の中に出てくる『おい、と声をかけたが返事がない』は、どちらかの茶屋のことだと言われています」
おじいさんは、やさしく教えてくださった。
「えっ、夏目漱石が来てたんですか、こんな田舎に・・・ 」
智恵美は、びっくら驚いた声を発した。
「そうですよ。第五高等学校で英語教師をしていた漱石は、明治三十年の大晦日に、友人の山川信次郎とともに、小天温泉の湯治場に出かけました。御二人は、金峰山の山路を登って行く途中、この峠の茶屋に立ち寄ったのです。そうして、目的の湯治場に於いて、思いがけないもてなしを前田家の人々から受けた。その思い出をもとに『草枕』を執筆したのです」
「そうだったんですか・・・ 私はてっきり東京とか都会の人だと思っていて・・・ 漱石さん、熊本に居たのですね」
智恵美は、熊本も大したもんだと感心した。
「あ、小天温泉って有名ですよね。漱石さんは、小天温泉まで、この前の路を通って行かれたんですね・・・ 」
若菜も興味をあらわに、おじいさんに訊ねた。
「そうです。此処からもう少し行かれると、漱石たちが歩いたと伝えられる石畳の路があります。石畳を歩いてさらに山路を登れば、野出峠の茶屋跡に着きます。ほら、地図で見るとこうなります」
「でも、今日の目的は、そっちではなくて、金峰山頂まで登り切ることですから・・・ 」
「智恵美、何だか面白そうじゃない。漱石さんの石畳、行ってみようよ」
「うん・・・  そうね・・・ 行こう、行こう。石畳で、漱石さんの面影を偲ぼう」
若菜に誘われて、智恵美も石畳に行ってみようと思った。
「ありがとうございました」
「ああ、気をつけて、行ってらっしゃい」
 峠を下ると、上り坂。ゆっくりゆっくり歩いて行く。『草枕の道・石畳』という道(みち)標(しるべ)に、ふたりは立ち止まった。
「畳みかける上り坂。はーっ、いぐさの畳でゴロンしたい」
「漱石さんの生きた時代。こんな舗装道ではなかったはず。でこぼこの砂利路、草の茫々と生えた路、歩くの大変だったろうなあ」
「さっきのおじいさんの説明だと、漱石は大みそかに登っているんだから、きょうみたく暑くはなかった。そこだけはマシだったはずよ」
さらに上ってゆけば、ようやく石畳坂に出くわした。
「おお、ここですか。これが『草枕』の舞台と言われる石畳か・・・ かなり先まで続いていそうね」
「うん、若菜。あいーっ。神様、仏様、日陰様。有り難き幸せに御座いまする」
「はははっ、腰をおろして、ひと息いれましょ」
 石畳の道は、両側を竹林に囲まれて、薄暗く、ひっそりとしている。ふたりは、おじいさんから頂いたパンフを読んでみた。
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかく人の世は住みにくい・・・の山路とは、この石畳のある鎌(かま)研(とぎ)坂(ざか)のことらしい。漱石さんも、ストレス解消に上ってきたのか・・・ 」
「ところで、若菜は『草枕』って小説、読んだことあるの」
「ううん、無い。『草枕』って聞いたことはあるけど・・・ 智恵美は?」
「私も無い。帰ったら、読んでみよう、『草枕』」
「うん、読んでみよう」
 石畳は、割れている所もある。古の人々の歩みをそのままに、今日に至る。右手には、みかんの木がたくさん植えられている。低木ながら、若葉を存分に付けて、しゃんと立っている。「やあ、力を与えよう」「がんばれー、乙女」と息を大きく吐きながら石畳をゆくふたりを激励してくれる。
「ありがと、みかんさん。私、ビタミンCが欲しい」
「こたつに入って、みかんをほおばりたい。やっぱ冬がいいわ」
坦坦と歩いて、やっと石畳路の終着が見えてきた。石畳の道は、八百メートルほどあるらしい。
「この石畳を歩いた漱石さん、どんなことを考えたんだろうね」 
「うーん、きっと、希望を感じていたと思うよ。金峰山の素晴らしい自然と、熊本人の良さを感じて・・・ 」
振り返って見ると、ながい石畳路だけが、別の世界に在るように感じる。前を向けば、開放的な風と眩しい陽射しを受けて、なお山路は続いている。野出峠の茶屋跡までは、もう一息ありそうだ。休みばかりとってられない。ふたりは、歩みを続けた。そして、ようやく『野出峠茶屋跡』の看板を見つけた。
「ふわあーっ。着いた着いた。歩きに歩いた。もうだめ。これなら金峰山の山頂を目指した方がましだったかも・・・ 」と若菜が根を上げた。
「ほんと。疲れたー。もう足がぱんぱん」と智恵美も疲労を露わにす。
それでも、重い足を引きずって、急坂を登り始めた。
 古き石碑は、ふたりを穏やかに迎えてくれた。高台に到れば、眺めがじつに素晴らしい。すぐ近くに、金峰山に連なる山々が聳え、その右手には、有明海が広がっている。有明海の手前の方は、畑地や住宅地を装う干拓地。そして、遠浅の海がずうっと広がっている。あれは、雲仙に行く大型フェリーだろうか。のんびり・・・ 動きが止まっているように見える。船の浮かぶ海面から目線を上げると、ぼんやりと山が見える。雲仙普賢岳の大きさが実感できる。きょうの普賢岳は、ご機嫌麗しい。有明海をはさんで、金峰山と普賢岳。果てしない時の流れのなかで、さまざまなドラマが生まれてきた。そして、漱石が、此処に立ち詠んだ句が、展望所の突端の句碑に書いてあった。
    天草の 後ろに寒き 入り日かな
「えっ、天草・・・ 私の故郷が此処から見えるのかしら・・・」
漱石の句に触発されて、若菜は遠くを見渡す。が、靄がかかって、天草の島々は見えなかった。
「漱石さん、此処から見た初冬の夕日の美しさに感動したんだなあ・・・」
「あーあ。私も此処で、彼と二人っきりで、素晴らしい夕日の景色を眺めてみたいわ・・・」
「ちょっと、智恵美、イケメンはもう諦めよう・・・ いいひとが現れますよ、智恵美さんに似合うひとが・・・ 」
「うん、自分の身の丈に合ったオトコを見つけよう。大紀は私には無理、いや、似合っていない」
己の虚栄心を反省し、現実を見つめる智恵美。
「はあーっ、就職か・・・ 考え直そうかなあ。農業をばかにしてたけど・・・ よく考えれば、農業は可能性を秘めている。要は、自分のやる気と根気次第・・・ 」
「私もそう思ってた。農業は自由。農業はやればやるほど面白くなる。私は、時間や組織に縛られたくない。大地の中で作物を育ててゆく方が、勤めをするよりやりがいを感じる。だから、やろうかな、農業を・・・ 今はひとつの光・・・ 」
「うん。でも、ひとりでは、無理。仲間と一緒なら・・・ 」
「ああ。若菜となら、やっていけそう、農業・・・ 」
 少し希望を見いだして、若菜は、リュックの中から方位磁針を取り出し、掌に置いた。
「北はどっちかなあ・・・ 」
「あっ、それ、地学の講義の時に使った方位磁針ね。さすが若菜、マニアーック」
智恵美は、此処に方位磁針を持ってきた若菜に感心した。
「うーん? おかしいなー、なかなか合わない・・・ 」
方位磁針の針は、ちっとも落ち着かず、ゆらゆら揺れて、定まらない。さらに、針は、ぐるぐると回転し始めた。
「狂ったのかなあ・・・ 私の気持ちのように落ち着かない・・・ 」
その時だった。突然、方位磁針の針が、もの凄い速さで回転し始めた。
「どうしたの、何故こんなにも・・・ あえっ、ちょっと、ちょっと待って・・・ 」
異常な方位磁針の回転に合わせるかのように、若菜の目もぐるぐると回り出した。
「ぐおおっ、うわーっ」
堪らず叫び声を上げ、方位磁針を放り投げた。すぐに智恵美に助けを求めようと振り返ると、智恵美の目もとんぼの眼になっていた。顔は、エクソシストのリーガンに・・・ 恐怖に震え出したとたん、ふたりの体は、宙に浮き始めた。
「うわっ、な、な、どうなってるー たすけてーー」
「わああーっ、なぜ、どうして? 死ぬー」
ありったけの大声で叫ぶが、上空へ持ち上げられてゆく。ばたばたと藻掻き、声を上げて叫んでも、体の制御はままならない。ふたりの体は、思いっきり雲の上に達した。
「た、たすけてー 誰か、助けてくださーい」
「きゃああーー」
ひゅーーーゅん   ぷっん
 猛烈なスピードで飛び去って、たちまち大気圏外へ。若い肉体は、光速回転のまま、真っ赤なとぐろの龍の背に乗っている。暗黒の空間をゆっくり漂っていきながら、銀河中心の強力な引力に吸い込まれていった。新鮮細胞も、キュートな乙女心も、おしゃべりな口も、ぎゅっとぎゅっと押し締められ、潰されていく。どす黒い空間を突き抜けて、燃えさかる血の屁泥へと送り込まれた。おどろおどろしいギョロ目が、暗黒に浮かび上がり、泣き叫びの響く血の河が、どくどくどくと流れていた。
「ああ、此処は・・・ 三途の河か・・・ 」
「そうよ、若菜・・・ 私たち死ぬのね・・・ 」
若菜も、智恵美も、死を覚悟した。

 

 ふたりの瞼は、ゆっくりと開いた。ぽっかり浮かぶ白い雲。青空は、いつも通り。相当な時間が経過したことは、確かなよう。
「あれ、あのとき、たしか・・・ 」
「おっ、ここは、地球か・・・ 」
「生きている、私たち、生きているんだ」
長閑な小鳥のさえずりが聞こえてきた。どうやら、三途の川は渡らずにすんだようである。
「三途の川さん、サンズーベリーマッチ」
「でも、ここはどこ? 私はだれ?  あっ、智恵美か」
若菜、そして智恵美、もっそりと起き上がる。安堵感と同時に不安感が、髪の毛から足の爪先まで駆け巡った。体にまとわりつく枯れ葉を払い落としながら、歩き出した。だが、周りには、見たことのない光景が広がっていた。
「いやっ、なんじゃこりゃ」
「いおっ、異様、硫黄、こわいよお」
殺気を感じ、身体がこわばる。煙のごとき黄色い靄の奥の奥は、ごつごつ岩がごろごろと転がっていた。遠くに切り立った森林も見える。煙霧を振り払いながら進むと、湖が現れてきた。水面に、さざ波が細かく揺らめく。バサバサバサ・・・雁の飛び立つ音。ぼっちゃん・・・ 湖に波紋が広がる。その後は、恐ろしいくらいシーンと静まりかえった。木の小枝を見ると、極彩色の鳥が、こっちを見ている。その向こうには、丸く整った形の石が、数個横たわっている。人は誰もいない。
「おかしい。違和感ありすぎ。こんな景色は見たことない。違う時代に来てしまったのかしら・・・ 」
「うん、たぶん・・・ 恐竜映画のワンシーンのような岩や森林や湖・・・」
「いやだー、私たち、原始時代に紛れ込んだ?」
「タイムスリップ? 死ぬ代わりに、大昔の知らない場所へワープしたのか・・・ 」
「ああーっ、私たち、普段の行いが悪いせいで、こんな所へ来てしまった・・・ 」
奇奇怪怪。顔面蒼白。阿鼻叫喚。恐怖炸裂。「とにかく歩いてみよう」
 ざわざわと大きく揺れる木々が、自分たちの方に迫って来た。大急ぎで明るい方へ走って行った。ごつごつした岩場を登っていき、もうもうと茂る木々の枝を払いながら、懸命に逃げてゆくと、草原に出た。向こうに、松の木と瓦屋根が・・・
「ねえ、見て、あそこに家がある。人が居れば、私たち助かるわ」
「イエ~イ! きっと、助けて下さるはずだわ! よし!」
 若菜と智恵美は、笑顔を取り戻して古民家へ近寄った。